秋田奈良家の移住の真相とは?

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

さて前回は、昭和期秋田の政財界文化人、奈良環之介氏の寄稿文を元に、秋田奈良家の移民の歴史伝承について、見て

参りました。しかし個人の家伝とは言え、同じ奈良姓としては、奈良県から移住?は、どうしても納得出来ないのです。

それではいったいどのように考えれば良いのでしょうか? せっかく奈良姓が、現代にまで繋がったのですからねえ。

 

私は当然、鹿角奈良氏一族が、秋田奈良家の先祖であると考えます。つまり移住の初因は、無論九戸政実の乱にあります。

以前もご説明した通り、奈良氏一族も九戸方と南部氏方に分かれます。大湯鹿倉城(右写真)が落ち、九戸方が6万の

奥州仕置軍に敗れ、三迫の地で首謀者が処刑されるのを見た九戸方の奈良氏一族は、恐怖に駆られて逃げ出したのだろうと

思われます。鹿角由来記にあるように、ある者達は、北の津軽氏の領地へ逃げました。津軽氏は、南部氏と対立していて、

九戸方と縁戚関係にあったからです。そしてまたある者達は、西へと逃れました。この点が重要なのです。西は出羽の国

であり、当時は領主秋田氏の力も衰えていたからなんです。東や南方面に逃れる者はありませんでした。何故ならそこは、

南部氏の所領であったからなのです。捕らえられてしまいますので、敵の所領に逃げ込む者はいませんよね。ですから

現在でも、青森県、秋田県には奈良姓が数多く存在し、岩手県(南部)側には奈良姓が少ないのですよ。

 

鹿角の地を逃れ、鹿角街道を西へと落延びた奈良氏一族は、南部領外の比内(大館市)に出て、更に羽州街道(国道7号)へ

入り、ようやく辿り着いた、まだ干拓されていない八郎潟(能代市)を南下し、街道沿いの秋田県潟上市豊川の地に到達した

のでした。こうして一族は、まずはこの地に定住します。この時一族は話しあい、自分達の本当の出自は秘し、新たな出自を

大和国と決め、姓を奈良姓と南都姓に改めたのでした。最初に本姓である奈良姓があったので、次に南都姓が出て来たので

しょうね。いかにも取ってつけたような姓ですからね。実は南都などと言う姓は、現在でも奈良県には存在しないのですよ。

まあでも、50年以上昔に、女優の故ミヤコ蝶々さんの元旦那で、南都雄二さんと言うコメディアンがおりましたが、あれは

ダジャレの芸名なのですよ! 大和国に、古くからの南都姓なんて、いないのですよ。

まずは本姓である奈良姓が最初にあり、奈良から連想される名として、南都姓を考え出したのでしょう。多分、一族の誰も、

大和の国(奈良県)に行ったことのある者は、いなかったのでしょう。知らないからこそ、南都姓を名乗れたのでしょうね。

更に、一族のある者たちは、より佳き地を求めてもう少し南下し、秋田市は金足の地に到達したのでした。しかしもちろん、

この入植は、単身や一家族だけによるものではありません。僅か100年でここまでの豪農になり得たのは、奈良氏一族郎党

力を合わせての、集団的移民開拓があったからであるのは、間違いないことなのです。

また本当に奈良県から来たのであれば、潟上市⇒秋田市では、逆行になりますよね?、ですから奈良県からでは無いのです。

そして更にこの頃(戦国末期)の秋田は、徳川家康により、常陸の佐竹氏が国替えにより、秋田へと転封されて来るので、

領内の混乱により、移民を取り締まれる状況でなかったことも、奈良家一族にとっては、幸いしていたのだと思われます。

また、秋田奈良家の家系図では、「慶長年中奈良喜兵衛より連綿、弘治年中とも言えども、」と、6代目の奈良喜兵衛が

前書きしている(奈良環之介氏寄稿より)と、ありますので、慶長年中(1596年~1615年)と言う、正しいと思われる

表記もされているのです。年代の計算をわざと間違えたのですかね? 6代奈良喜兵衛は、寛永5年~元禄5年(1628~

1692年)の人だそうです。弘治年間(1555~1558年)に初代奈良喜兵衛が入植したとすると、後の5代で、73年~

134年間が経過したと考えられ、一見まあ妥当な年数のように思えるのですが、実は錯覚があると、私は考えるのです。 

まず初代奈良喜兵衛の入植時の年齢なのですが、初代を名乗る以上、壮年期と考えるべきです。仮に30歳前後と考えれば、

入植時には、幼い2代目喜兵衛が、既に存在していたと考えられるのです。そう考えると、後は4代で考えるべきなのです。

更には、6代目喜兵衛が家系図を書いた年代なのですが、常識的には、老境に達してから以降の作だろうと、考えるべきです。

仮に6代目喜兵衛が50歳以降の時の作だとすると、1678年以降の作 ということになります。弘治期の入植時期を一番遅い

1558年としても、6代喜兵衛が家系図を書き始めるまで、120年が経過していることになるのです。江戸期の一世代の年数

は約20年ですから、4世代分足しても年数がまだ足りないのですよ。これを奈良環之介氏は、言っていたのです。

このように考えると、秋田金足の初代奈良喜兵衛は、やはり慶長年間(1596~1615年)に入植したのだと考えられるのです。

6代目奈良喜兵衛は、真実を知っていて、敢えて嘘を真にするために、家系図を書いたのではないか?、と思われるのですが、

これは少し、うがち過ぎでしょうかねえ? だってその時分にも、宿敵南部藩は、存在していましたからね。九戸の乱から

90年近く経過していたとしても、南部藩に真実を知られる不安はあったのだと思われるのです。何と言っても、南部藩と

津軽藩の対立意識構造などは、400年以上経過した現在でさえ、一部ではまだ今も続いているのですからねえ。

 

とは言え、現在の奈良姓の人口情勢を見ても、奈良県との関連性は、統計的には考えられず、むしろ鹿角市と秋田市・潟上市

更には青森県弘前市との関連性の方が、統計学的には優位に高いのですよ。ちなみに、2012年版の電話帳検索では、秋田市

金足小泉湯向地区の奈良姓は、奈良茂さん以下27世帯存在で、最も多い名字になっています。つまり科学的に考えますと、

秋田奈良家の移住は、大和国由来伝承説よりは、鹿角由来説の方にこそ、高い合理性があるのだ、と言うことになるのです。

 

さてこのような理由考えると、やはり青森県の奈良姓の方々も、鹿角奈良氏の子孫と考えて良いのでしょうかね?(次回へ)

 

 

「奈良磐松」紹介ページ  秋田県立秋田高等学校同窓会ホームぺージ内

「奈良家の故地を訪ねて」 奈良環之介氏寄稿  県政あきた 61号 1967