室町・戦国期における奈良氏の活躍?Ⅳ

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 さて今回は、秋田県鹿角市の大湯温泉近辺を所領としていた、鹿角奈良氏の惣領家である大湯氏が、何と豊臣秀吉!

の天下統一への最後の大いくさで敗北した??、と言われる九戸政実の乱について、詳しく見て参りましょう。

その背景である大湯氏の主君筋であった南部氏一族内の内紛状況については、前回簡単にご説明させて頂きました。

確か、南部氏一族内部が、九戸政実方と南部(田子)信直方に、それぞれ分かれて対立していたのですよね。

 

時は天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉軍は、小田原北条氏を滅ぼし、その勢いそのまま、奥州仕置き(平定)へと

進軍を開始します。下野国(栃木県)宇都宮城に入った秀吉は、ここで奥州の各領主に対し、仕置き状を与えます。

と言っても、所領を安堵されたのは、小田原に参陣していた南部氏、津軽氏、最上氏等ぐらいでしたけれどね。参陣

しなかった、鎌倉期からの多くの奥州諸大名(葛西氏、大崎氏、田村氏、稗貫氏、白川結城氏等)が、改易されました。

伊達正宗もこの時、小田原遅参などの理由で、150万石から半分以下の72万石にまで、所領が減らされていますよね。

で、南部氏の南部(田子)信直は、小田原参陣していたおかげで所領も安堵され、南部氏宗家として、秀吉から認められ

た訳なのでした。でもその後秀吉は、奥州仕置軍と共に東北南部を巡行するのですが、途中で帰ってしまいます。

また奥州仕置軍も、平泉付近までは進軍するのですが、平定し検地を行った後は、代官らを残して引き上げてしまいます。

世間的にはこれらの撤収を以って、秀吉による奥州平定=天下統一の完成、と思われているようなんです。

しかしその後、所領を没収された元領主らによる、秀吉の仕置きに反抗する動きが、「一揆?」と言う形で、東北各地で

頻発することになります。これらの一揆(乱)を、代官として現地に残った浅野長政や蒲生氏郷らの奥州進駐軍?が、

武力鎮圧して行きます。九戸政実の乱とは、まさに消し去られた乱の、最後の大いくさ?、であったのでした。

 

明けて天正19年(1591年)、九戸政実は、南部氏宗家になった南部(田子)信直への正月参賀を拒絶し、不平を持つ

他の南部氏一族と共に、5千の兵で挙兵したのでした。元々南部氏一族の中でも有力者であった九戸政実は、いくさも

強く、南部(田子)信直方の城は、次々に落されて行きます。防ぎ切れないと悟った信直は、6月に、子の利直を上方の

大阪城に派遣し、秀吉にその窮状を訴えます。それに応えた秀吉は、第二次奥州仕置軍を編成し、僅か5千の九戸政実軍を

打ち破るために派遣したのでした。この第二次奥州仕置軍の陣容が、すさまじいものでして、豊臣軍の軍事パレードか?

と見まごうばかりの編成でして、総大将が甥の豊臣秀次で、これに徳川家康(井伊直正)、堀尾吉晴、上杉景勝、大谷吉継、

前田利家、石田三成らの軍が加わり、更に奥州地元の伊達正宗、最上義光、秋田実季、津軽為信らの軍がその配下に入り、

現地で待つ、浅野長政、蒲生氏郷の軍に8月、遂に合流したのでした。まさに豊臣スター軍団結集ですわね、総勢6万!! 

所詮田舎の5千足らずの兵で、勝てる訳がありませんわねえ。でも実は九戸軍、大奮戦したみたいなんですよ。ですから

秀吉は、九戸政実の乱の痕跡を、歴史から消し去ろうとしたみたいなのです。(※作家:高橋克己氏説) そういえば、

のぼうの城の忍城攻め(埼玉県行田市)の時も、秀吉(石田三成)は、忍での敗北を、石田堤構築による勝利だったのだと、

歴史を改ざんしていますよね。実は忍城が落ちなかったという事実が、世間に広く知られたのは、小説:のぼうの城が

ブームになった後のことなんですよ。

 

でこの時、九戸政実に味方したのが、鹿角の大湯(奈良)四郎左衛門(昌二?)だった訳です。まあ玉砕覚悟ですよねえ。

更に同時に、同郷鹿角安保氏(成田氏)の惣領家である大里修理も、大湯四郎左衛門昌二と一緒に、挙兵しているんです。

もしかすると、鹿角奈良氏にとって本家筋に当たる鹿角安保氏(成田氏)惣領家が、九戸方に味方したので、大湯氏

(奈良氏)としても、これに同調して参戦したのかも知れません。多分、鹿角四頭の末裔小領主たちは、こぞって皆、

九戸方に味方したのでしょう。何故なら乱後の鹿角の支配状況が、発掘調査で、がらりと変わっているからなんです。

大湯氏の居城、大湯鹿倉城(左写真)が、三戸南部氏方の大光寺正親勢の包囲により落城すると、大湯四郎左衛門は、

城を脱出し、九戸政実の籠城する九戸城(右写真)に入ります。その後九戸方は、豊臣勢に城を完全包囲され、敗北を

覚悟しますが、この時、豊臣秀吉の重臣である浅野長政より、九戸氏の菩提寺の住職を通じて「降伏すれば命は助ける。」

との和睦提案が示されます。これを信じた九戸政実は、9月4日、九戸方の重臣と共に白装束姿で城を出、秀吉軍に降伏

したのでした。で何と、この白装束姿の九戸方重臣の中に、大湯(奈良)昌二も、大里(成田)修理も、いたのですよ!

ところが降伏したにも拘わらず、助命の約束は反古にされ、城に残っていた者達は、全て二の丸に押し込まれて惨殺され、

火をかけられてしまいます。白装束の首謀者達は捕えられて、奥州仕置軍の本陣のあった、三ノ迫(宮城県栗原市栗駒)

へと連行され、処刑されたのでした。この白装束の首謀者7名の首を洗った「首級清めの池」と鎮魂のための九戸神社が、

今も栗駒に現存しているそうですよ。で、九戸神社には、乱の首謀者?7名の名前を彫った慰霊碑もあるそうなのですが、

何とその7名の中に、大湯(奈良)昌二も大里(成田)修理の名前も、ちゃんと入っているのですよ! 

奈良姓の末裔としては、誇らしい気がしますね。なんたって、地元軍が、最強秀吉軍と戦って敗れたのですからねえ。

詳しくは、岩手県二戸市教育委員会や、岩手県県北広域振興局二戸地域振興センター等の歴史HP等を、ご参照下さい。

完全に敗者:九戸政実サイドに立った、詳しい解説が得られますよ。また、作家の高橋克彦さんにより、「天を衝く」

という小説なども出版されていますし、九戸政実の乱を描いた紹介動画なども配信されています。

しかし乱の平定後、九戸城(右写真)は、進駐軍である蒲生氏郷によって改修され、福岡城と名を改め、代々の南部氏の

宗家が居城する主城へと変貌して行ったのでした。秀吉は、九戸城跡が残ることを、恐れたのかも知れません。

 

これらの歴史を見ると、「鹿角由来記」で書かれている、秋田県鹿角市大湯の奈良氏が、九戸政実の乱で、どうして栗原市

三ノ迫の地で切腹?なのか?が、良く理解出来ますよね。何と大湯氏も大里氏も、南部氏配下とは言え、九戸方の重臣?

だったんですねえ。と言う訳で、この九戸政実の乱の平定を以って、豊臣秀吉による天下統一は、完成となるのですが、

世間的にはこの乱の経緯、まあ世間的には、ほとんど知られてはいませんよね。少し悔しい気がします。

さてこのいくさで、鹿角四頭と呼ばれた在地42領主の多くが、九戸方の落人として、秋田、津軽方面へと離散して行き

ます。(「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」より) この事象は、また後代の章で、詳しくご説明させて頂きます。

またそれでは、大湯奈良氏は滅亡してしまったのか?と言うと、さにあらずでして、大湯四郎左衛門昌二の子孫達は、

乱の後も、津軽(青森)の地で、何故かしっかりと生き延びて行くのですよ。不思議ですわねえ。(次回へ)

 

 

九戸城跡:岩手県二戸市福岡城之内

大湯鹿倉城跡:秋田県鹿角市十和田大湯下ノ湯

「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」 1981 秋田県教育委員会

WEB 戦国ダンシ 九戸政実  岩手県北広域振興局二戸地域振興センター