室町・戦国期における奈良氏の活躍?Ⅲ

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。以前の奈良姓の由来・歴史ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 前回は、鎌倉期の秋田県鹿角市に、四天士の一員として入植を開始した武蔵国出自の奈良氏一族が、室町期を通じ、

各村々の地名を姓として名乗りながら、各村を分割統治していた状況を「鹿角由来記」を通じて見て参りました。 

 さて今回も「鹿角由来記」の続きなのですが、鹿角奈良氏の運命を大きく左右した、戦国期の重大歴史事件?について、

触れて行かなければなりません。一般的には、あまり知られていない歴史事件なんですけどねえ。でももちろん鹿角の

奈良氏のお話しなんですが、実は当時の超有名人が多数関与することになるのですよ。まあ結末の方は別としましても、

武士団奈良氏としては、むしろ誉なんでしょうかね? さてそのいきさつとは?、右ページの大湯村の条をご覧下さい。

「大湯村は元々、大湯左衛門家の領地である。本名(姓)は奈良で、鹿角奈良氏の惣領家である。 大湯左衛門

(「奥南落穂集」では、大湯五兵衛昌光?)の嫡子の名は、四郎左衛門(五兵衛昌忠?)、次男は治郎左衛門

(四郎左衛門昌二?)、三男は彦左衛門(?)と言った。

この四郎左衛門(長男か次男か?)は、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の一味に味方して戦ったが捕えられ、

九戸政実らと共に、栗原郡の三迫の地で切腹した。一緒に戦った(子の?)治郎左衛門と彦左衛門は、津軽(青森)

へと落延びた。その後治郎左衛門は、津軽氏(大浦氏)に召抱えられ、知行200石を拝領するようになった。

また彦左衛門も、津軽氏に奉公した。が、大湯村のその後は、大湯五兵衛(昌忠?)の領地のまま据え置かれた。」

と言うような内容です。鹿角由来記の中でも多くの行を割いていますから、かなり大きな出来事であったことが判ります。

まあつまり、鹿角奈良氏の惣領家である大湯氏は、九戸政実の乱で、九戸方に味方して敗れ、子孫は津軽へ落ち延びた、

と言うことですね。武蔵出自の武士団奈良氏にとっても、讃岐奈良氏の、長曾我部元親の讃岐侵攻による滅亡事件に続いて、

大変ショッキングな出来事ですわね。

しかし天正19年(1591年)の九戸政実の乱って、一体どのような戦乱だったのでしょうかね?

 

まあ九戸政実の乱については、世間的にはそれほど有名ではないようなので、少し補足させて頂きます。この乱、元々は、

大湯氏を含めた鹿角郡の在地領主達の主君筋であった南部氏の一族内の内紛が発端なのです。天下統一目前の豊臣秀吉が、

奥州仕置きとして、娘婿南部(田子)信直(三戸氏)を南部氏宗家に認定したことに対し、これに反発する九戸南部氏らが

起こした反乱なのです。南部氏の一族支配は、血縁的封建制度に基づく、緩やかな連合支配体制であったのが、秀吉の命で、

ひとりの主君(南部信直)と、その他家臣一同に、一族が分断されてしまった訳なんです。近世大名制度なんですかね? 

この措置を容認出来なかったのが、九戸政実等でして、東北地方では、秀吉のこのような仕置き(ひとりの主君とその他の家臣)

に対する反発が、東北各地で勃発したため、秀吉は小田原(北条)攻めに引き続き、奥州仕置軍を出陣させることになったのでした。

まあ本当は、東北地方の小領主たち、秀吉の小田原(北条)攻めに参陣しなかったので、在地領主として認められなかったことが

理由でもあるんですけどね。だって小田原に参陣した南部(田子)信直は、何と秀吉から所領を安堵されているんですよ。 

そう言えば、伊達政宗も、何とかぎりぎり間に合いましたけどね。でも所領は半分に減封されてしまいましたよね。

だってそうは言っても、奥州は遠いんですよ。また東北の雄伊達政宗とは違い、皆さん弱小領主だし、、、

 

で、勢いに乗る秀吉の奥州仕置軍は、葛西・大崎氏の一揆(乱)や、和賀・稗貫氏の一揆(乱)を次々と制圧して行きます。

そしていよいよ、秀吉の天下統一の総仕上げの合戦として、ものすごいメンバーで、この 九戸政実の乱に臨むのでした。

ちなみに大湯氏の居城、大湯鹿倉城はこの時、三戸南部氏方の、大光寺光愛の猛攻により落城し、脱出した四郎左衛門は、

九戸城の九戸政実の軍に合流しました。(鹿角市 大湯鹿倉城跡碑文より。) 何か讃岐奈良氏の末路と似ていますよね?

 

さてその九戸政実の乱の詳細とは?、次回へ。(いよいよ戦国のオールスター軍団が、多数登場です。)