室町・戦国期における奈良氏の活躍?Ⅱ

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。以前の奈良姓の由来ブログを、加筆・再編して、再掲載させて頂いております。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 で、前回までは、室町幕府管領家にまで登りつめた細川氏に付き従い、四国は讃岐国の鵜足津・那珂郡(宇多津町、坂出市、

丸亀市等)に領地を得て、城持ち領主にまで出世して、最後は戦国のいくさで華々しく散った?、讃岐奈良氏の歴史を

見て参りました。細川四天王と呼ばれた頃の讃岐の奈良氏の名声は、全国各地に散らばる奈良氏の末裔達にも、しっかりと

伝えられていたであろうと思われます。まあ、全国の奈良氏の末裔の数に、それほどの人数はおりませんけどねえ、、、

 

さて香川県にも、埼玉県熊谷市出自の奈良氏の末裔が活躍していた事は判ったとして、それ以外にも各地に散らばる?、

室町・戦国期の奈良氏の足跡などは、果たして他の記録などに残っているのでしょうかね?

そこで写真は、以前の鎌倉期でご紹介させて頂いた、秋田県北部鹿角郡の郷土史書「鹿角由来記」(南部叢書第一部)の

続き、なのですが、以前は、源頼朝の奥州征伐の恩賞により、鎌倉期の陸奥国鹿角郡(秋田県鹿角市)に領地を得て、

都より入植して来た四天侍(安保氏、秋元氏、奈良氏、成田氏)、いわゆる鹿角四頭の登場について、ご紹介させて

頂きました。

 

で、今回の写真は、その鹿角由来記で、奈良氏に関する記載のある部分なのですが、鹿角42村の所領状況の推移を、

各村ごとに紹介している部分になります。拡大してご確認下さい。

四氏族は、それぞれの地名を姓として、戦国期まで鹿角郡内42の村を分割統治する在地領主になって行ったのでした。

その分割統治の内訳が、この写真ページには記載されているのでした。

この鹿角四頭による中世鹿角地方分割統治の痕跡については、鹿角由来記による記載だけではなく、実際の現地発掘調査

の報告資料などでも裏付けられています。※

 

で、右ページの3行目にまず、新斗米村(鹿角市花輪字新斗米)が出て参りますね。「新斗米村は、新斗米左近の領地で、

新斗米氏の本名(本姓)は奈良で、館(城?)が有る。」との内容です。

同様に8行目には、「小枝指村(鹿角市花輪字小枝指)は、小枝指左馬の領地で、本名(本姓)は奈良、館(城?)

が有る。」とあります。つまり新斗米氏や小枝指氏は、奈良氏の分家である、と言うことですわね。

奈良氏の末裔達が、各村に入植し、その地名を姓として名乗り、しかし本姓(出自)は、しっかりと保持していることが、

良く判るのですよ。左ページ8行目の、芦名澤村(鹿角市十和田山根字芦名沢)も同様ですね。芦名澤太郎兵衛(本名奈良)

の領地だったようですが、奥さんの館が、芦名澤観音の札所であったようで、現在でも秋田県の昔話「芦名沢の観音様」

として伝承されています。でも伝承の方では、この地の領主の名は、奈良ではなく成田になっているんですけれどねえ。

奈良の本姓の、更に本姓を名乗っていたのかなあ??、、 またお話しの時代の方も、何故か奈良時代!になっているんです

よねえ、、、。

 

でも何故、秋田藩ではなく、江戸期の南部藩記録文書である南部叢書に、鹿角由来記が収録されているのか?と言えば、

当時の鹿角は、岩手南部氏の配下だったからでして、南北朝期に惣領家の成田氏が、南部氏の配下として南朝方に加わっていた

ことに由来しているようなんです。従って南部氏としては、鹿角郡を自分達の領地としてみなしていた訳なんですね。 

まあしかし、その時々、時代時代での離合集散は、世の常だった訳でして、、、

 

さて問題は、右ページ4行目からの、鹿角奈良氏の惣領家である大湯氏についての、長い記述についてなのですが、これ、

豊臣秀吉との、戦国最後の大いくさについてと、鹿角奈良氏惣領家の運命についての記録なのですよ。(詳細は次回へ。)

 

 

「鹿角由来記」(南部叢書第一部に収載):国立国会図書館デジタルコレクション

※「東北縦貫自動車道発掘調査報告書」秋田県教育委員会 1981年 より。