元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。いつもこのブログをご訪問頂き、誠に
有難うございます。以前のブログを加筆・再編して、再掲載させて頂いております。
<時候のコメントは、削除させて頂きました。>
さて前回は、細川京兆家(管領家)の被官として大出世?を遂げた、讃岐に渡った奈良氏の、応仁期(1467年~)の子孫、
奈良元安等について、「太平記」や「新宇多津町誌」の記録等から見て参りました。
で、写真は、以前もご紹介した、江戸後期に丸亀藩によって編纂された、香川県は西讃岐地方の地誌「西讃府志」の中で、
奈良氏が登場する部分のページです。拡大してご覧下さい。どのような内容か?と言うと、
「奈良氏は、出自は良く判らないが、東国の出で、応仁期に奈良太郎左衛門元安が出て、細川家に仕えて、香川氏、香西氏、
安富氏らと共に、細川四天王と呼ばれた。」と言う「南海通記」でもご紹介したと同様の書き出しで始まっているのですが、
その後は元安の子孫達の、その後の経緯・詳細が描かれています。少し長いのですが、現代語訳させて頂きましょう。
「讃岐の鵜足・那珂の二郡は、元々讃岐藤家の所領であったが、細川家に馬廻り役として仕えた、奈良元安に下され、」
(多分、地頭から領主になった?)
「奈良元安は、城(聖通寺城)を宇多津の地に築いて定住した。元安の子は、名を奈良備前之守元信と言ったが、京の都に
在住して、細川管領家の執事として働いたので、京都近郊にも所領を有していた。奈良元信の子は、奈良太郎兵衛元政
と言い、元信は子の元政を宇多津に置き、後藤左衛門左らの家臣を後見役として、宇多津・那珂の領地を経営支配させた。」
「しかしこの元政の代に、奈良氏は徐々にその領地を失い、宇多津郡の津之郷二村や川津など数村を残すのみに弱体化して
行った。その後、土佐の長曾我部元親は、西長尾に城を築き、国吉甚左衛門を城代に置いた。これを受け、奈良元政は、
その侵攻を恐れて栗熊村に砦を築き、後藤左衛門左を派遣し守らせた。」
「しかし天正十年(1582年)本能寺の変で織田信長が死ぬと、長曾我部元親は侵攻を開始し、一族の長曾我部(福留)親政が、
宇多津にも攻めて来た。そこで奈良元政は、当時の阿波領主?であった味方の十河存保(そごうまさやす)に援軍を頼んだが、
十河氏も弱体化していて加勢出来ず、元政の手勢も少なく、やむなく元政は城(聖通寺城)を棄てて、同僚の香西伊賀守に
加勢しようと、手勢250人を引き連れて、東へ向かい小山に陣を敷いた。しかし天正10年8月2日大雨が降り、野陣を張るのが
難しくなり、元政は、山を下りて麓の観音堂で一夜を明かした後、荷駄を棄てて阿波の国へと向かい、三好(十河)存保の軍に
加わるため勝端城(しょうずいじょう)に入った。しかしその後、長曾我部元親は、2万の兵で勝端城に侵攻して来た。
十河存保は、阿波の兵ら3千5百でこれを迎え撃った。存保は2千の兵で、城の南中富川まで押し出し、奈良元政は、250の兵を
3方に分け、家臣の物集氏と進士氏を左右の将として奮戦したが叶わず、奈良元政は討ち死にした。
奈良元政の子、奈良太郎左衛門は、元政の聖通寺城(宇多津)脱出の時、まだ幼かったので、金を与えて上方へ逃していたが、
豊臣秀吉の四国平定の後、宇多津に戻り、津郷村に隠れ住んで(農民として)生涯を終えたと、伝えられている。」
と言う、最後は悲しい末路になった訳なのですが、まあ讃岐の奈良氏としては、波乱万丈の歴史!でもあったと言えそうです。
武家の歴史としては、ジェットコースターのようで、良かったのではないでしょうかね? そして奈良太郎左衛門の子孫も、
多分現代まで、生き残ったに違いない、と思われるのですよ。その理由は、西日本は、人口に占める奈良姓の割合が低いの
ですが、何と讃岐地方だけは、何故か奈良姓の割合が多いのですよ。このことから、奈良太郎左衛門の子孫は、農民として、
讃岐の地に、しっかり生き残ったに違いないと思われるのです。それも、奈良姓を忘れずに、なのです。※
なお讃岐の奈良氏三代のお話しについては、「新宇多津町誌」にも、聖通寺城主奈良三代で、詳しく紹介されています。
まあもう既に、戦国の世ですからねえ。そう言えば、豊臣秀吉による、天下統一の最後の戦い?と言われるいくさにも、
何故か奈良氏の名前が出て来るのですよ。ご存知ですか?(次回へ)
「新宇多津町誌」:宇多津町誌編集委員会 1982年
「西讃府志」:丸亀藩編纂 1858年 国立国会図書館デジタルコレクション
※現在の香川県の奈良姓の人数:およそ600人で、四国四県では一番多いらしい。(Web日本姓氏語源辞典 等より)


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