元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。いつもこのブログをご覧頂き、誠に
有難うございます。現在は、以前のブログを加筆・再編して、掲載させて頂いております。
<時候のコメントは、削除させて頂きました。>
さて前回までは、熊谷市内奈良地区で発見した初代奈良氏の奈良三郎を調べるために、本家である成田氏について、
色々調べた結果、成田氏は平安末期から鎌倉期にかけて、保元物語などで、歴史上に現れて来た武家氏族であり、後の
戦国時代には、北条方として秀吉軍の石田三成と戦っても負けなかった有力氏族であったことが、明らかになりました。
ところで、平安末期から武士団の勃興により、一族が自分達の土地の所有権を主張するために、土地の名前を姓として、
武士は氏姓を名乗り始めた訳なのですが、一族郎党が増えるに従って、与えられる土地も、少なくなって参ります。
でそうなりますと、新しく分与・入植が出来る、新たな土地がどうしても必要になって来ます。が、新田開発は、容易
ではありませんので、既に開拓された農地を得るのが一番得策です。(でも、貴族や朝廷の所領・荘園を奪うことは、
この時代はまだ出来ません。)そこで、戦いによって、相手の武士団の領地を奪い取る形が、定着するようになります。
こうして各地に武士団が発生し、武士団同士のいくさが頻発するようになります。(貴族や朝廷は入っていません。)
実はこれが、後の源平合戦であり、頼朝による奥州征伐だったのでした。義経憎しのための奥州征伐ではありませんよ。
その結果、全ての武士団の土地が、源氏一族の支配となったので、源頼朝は、都の朝廷とは別に、鎌倉幕府を樹立する
ことが出来たのでした。(あくまでも、武家の土地、武家の社会だけを安堵・統治するための、鎌倉幕府ですよ。)
私は、当時の武士同士のいくさのほとんどは、土地(領土)争いのための手段であった、と見ております。しかしながら
それでも、この当時の朝廷や貴族は、まだ武士団の上位に、不可侵な名目的支配者として、君臨していたのですよ。
つまり鎌倉期とは、完全な武士の世になった訳ではなく、朝廷・貴族中心の世の中から、武士だけの世が分離・独立した、
支配者が並立した世の中になったのだと、考えるべきなのです。
で写真は、「吾妻鏡」の写本で、要は鎌倉幕府による、日記体の幕府記録文書なんですが、文治5年(1189年)7月19日
の条(ページ)の一部で、奥州藤原氏征伐時の、鎌倉出陣式の際の源頼朝に従う兵士代表者一覧紹介の部分です。
あの奥州に逃げた源義経を追討させ、更には奥州の支配者であった、奥州藤原氏を滅亡に追いやった、あの奥州征伐(合戦)
ですわね。で、注目すべきは、左ページ下段部分に、成田氏の初代、成田助隆の子孫と見られる、成田七郎助綱の名前が
記載されていることなんです。(※成田氏系図によれば、初代成田助隆の孫に当たります。)
でもまあ吾妻鏡の記載で成田七郎助綱は、かなり下位ランクの登場場面なんですけどね。前ページ延々と5頁に渡って、代表
兵士の名前紹介が続いていて、実は最後の方なんですよね。ご自身でご確認下さい。とは言え、吾妻鏡には、それぞれの
武士団の代表者の名前だけが、列挙されたものと思われますので、成田七郎助綱の元には、当然、成田氏一族である奈良氏の
郎党らも、成田氏武士団一同として、間違いなく奥州に従軍していたのだろうと、見られるのです。
そして多分、一同奮戦したのでしょうね。何故なら、奥州藤原氏滅亡の直後、吾妻鏡によると、同じ年の9月20日の条で、
頼朝は平泉の地で、奥州合戦での勲功に対して、家臣に恩賞の下文を与えているのです。その多くは、奥州の土地(所領)
だったのですが、要は、滅ぼされた元奥州藤原氏の領地を、勲功のあった家臣に与える、という恩賞ですわね。
その答えが、後の奥州の、とある地方の郷土史書から、この時従軍したであろう成田氏一族に与えられた恩賞が、突如判明
することになるのですよ。それは秋田県北部、青森県との県境にある鹿角地域の、17世紀編纂の郷土史書、「鹿角由来記」
によって、その詳細が明らかになったから、なのでした。しかし鹿角って、奥州(東北)の中でも、ひときわ辺境の地!?
ですわねえ、、。さあて、鹿角由来記で、実際何が判ったのでしょうかねえ?(次回へ)
※吾妻鏡写本:国立国会図書館デジタルコレクション 新刊吾妻鏡.巻9 28頁より

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