元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、色々と書かせて頂いております。
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陥っている訳ですので?、以前のブログを加筆・再編して、掲載させて頂いております。
<時候のコメントは、削除させて頂きました。>
さて、平安末期に熊谷市上之の地に入植した、武蔵武士団成田氏の家系図によりますと、
氏祖:成田太夫助隆には子が四人いて、嫡子が成田太郎助広で、次男が別府氏の祖となる
別府次郎行隆、三男が奈良氏の祖となる奈良三郎高長、四男が玉井氏の祖となる玉井四郎
助実であったと、記されています。それぞれ分家して、熊谷市内各地に所領を得て、成田
四家と呼ばれるようになりましたが、実はこの四人の名、保元の乱を描いた保元物語にも、
源義朝の家来として登場しています。具体的には、七月十一日の「白川殿攻め落とす事」
の章で、後白河天皇方が崇徳上皇の御所へと攻め入るのですが、後白河天皇方の源義朝に
付き従う兵士団の中で、武蔵国よりとして、この四人の名前が登場して来るのですよ。
皆さんも是非ご確認下さい。この保元物語での登場が、武家奈良氏の名前が、文献上での
奈良氏初登場の例になります。現在では、知る人も少ない武家、奈良氏なんですけれどねえ。
でもこの頃のいくさって、個々の名前が大事みたいですわね? それだけ少人数でのいくさ
(戦い)であったみたいです。せいぜい数百人レベルぐらいの小競り合いか?、それでも、
保元物語という琵琶法師の語りに、名前が登場するぐらいですから、大したものだと思い
ますよね。何せ当時の琵琶法師なんて、現代に置き換えれば、マスコミみたいなものです
からねえ、マスコミに奈良氏の名前が登場したのだ、という史実は、大きなことなのですよ。
多分その当時は、成田四家も、武蔵国では、有力名族のひとつだったのでしょうね?
また実際現在に至るまで、熊谷市内の各地名として、成田も、別府も、奈良も、玉井も、
当時の地名が、そのまま残っているのですから、これも驚きですよね。ちなみに、この時分
(平安末期)の郡地名では、武蔵国幡羅郡だったのですが、その後郡域が変更されていて、
武蔵国大里郡に変更されています。ですから文献等によって、幡羅郡だったり大里郡だったり
するんですが、成田氏・奈良氏に関しては、どちらも実は同じ地のことなのですよ。
さて奈良氏の方に目を向けますと、奈良の地を所領とした三男の三郎高長は、奈良の地名を姓とし、
武士団奈良氏の祖になった!、と言う訳ですね。でも本姓は、成田なんですわね。(すぐご近所!)
でも、妙音寺の奈良三郎の墓の碑銘では、本姓は藤原と言うことになっているんですけどねえ、、、
まあようやく、奈良三郎が登場して参りましたが、その奈良三郎の居館跡であったと伝わるのが、
以前もご紹介した、上奈良地区にある現在の妙音寺(写真)なのです。ですから江戸中期享保年間に
奈良村の村民外記は、この寺の境内に、奈良三郎の墓を建てたのですねえ。外記は、成田氏系図を
見ていたのですかねえ? でもどうして墓は、妙音寺の境内だったんですかね? この理由はやはり、
妙音寺は奈良三郎によって開基されたのだ、との古くからの伝承が、奈良村内で言い伝えられて来た、
という証左になると思われるのです。ですから奈良三郎の存在は、少なくとも奈良村内においては、
史実であったと言えるのです。
更には、成田氏系図や保元物語の記載以外でも、奈良三郎高長は、源義朝に仕えた訳なんですが、
その子源頼朝には、同じく奈良三郎高長の子である、奈良五郎高家が仕えた、との記事記載だって
鎌倉幕府の記録文書である「吾妻鏡」にはあるそうなのですよ。(※熊谷人物事典 P270より)
つまり奈良氏も、成田氏と同じく、鎌倉幕府では、御家人になっていた!、ということなのでした。
(ウィキペディアの鎌倉御家人一覧表には、出て来ませんけどねえ、、、)
残念ながら、歴史に埋もれてしまった?、と言うことなのでしょうかねえ? でも奈良五郎高家ら
奈良氏一族が、鎌倉幕府御家人であった、と言う痕跡は、今でもしっかりと残っていると、私には
思われるのですよ。何故か?と申しますと、それは各地の地名になんです。例えば、さいたま市の
大宮区には、奈良町がありまして、この奈良町って、奈良・別所通り沿いに存在するのですが、
私この通りは、鎌倉時代には鎌倉街道の一部であったのだろうと、考えているんです。つまり、
御家人奈良氏一族の一部が、鎌倉幕府への順番の「番役」勤務のためと「いざ鎌倉」に備えて、
奈良町に居住していたのだ、と考えられるのです。だから奈良町になったのですよ。 とすると
隣りには、別所氏と言う御家人一族も住んでいたのかな?、などとも考えられる訳なんです。
で、同様のことは、横浜市青葉区の奈良町にも言えまして、奈良氏の一部が、鎌倉の地のそばの
この地に居住していたからこそ、奈良町になったのですよ。こちらの鶴川街道沿いだって、昔は
鎌倉街道沿いだったのですよ。どちらの奈良町も、江戸時代までは奈良村だったのでして、つまり
奈良氏の村と言う意味だった、と言えるのです。このように考えると、両奈良村の起源についても、
合点が行くのですよ。(この考え、私の独自新仮説?なんですけどね、、。)
ところで、源頼朝に仕えた成田氏は、成田助綱(吾妻鏡より)と言うのですが、その弟に成田
助忠(成田五郎)がおりまして、彼が仕えたのが何と、源義経だったそうでして、源平の合戦で
義経に従い、一の谷の合戦での戦功により、行田の地を所領として賜り、行田氏の祖!になった
のだそうです。(※※郷土忍の歴史:行田郷土史研究会より)
まあしかしながら、成田四家や奈良氏の名前は、その後の南北朝期や室町期にも、様々な文献に、
ちらほらとは?、現れて来るのですよ。(次回へ)
※熊谷人物事典:日下部朝一郎編著、国書刊行会 1982
※※郷土忍の歴史(稿本):行田郷土史研究会 2012

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