奈良氏の祖、奈良三郎?(再)

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、色々と書かせて頂いており

ます。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。

 

<時候のコメントは、削除させて頂きました。>

 

 ネット検索を活用し、熊谷市の奈良地区について色々調べる中で、市指定の史跡で

奈良地区にある、奈良三郎?と言う人物の墓を、市の文化財ガイドから発見しました。

その説明文によりますと、「成田氏系図によると、奈良三郎は、初代成田助隆の三男、

三郎高長で、奈良氏を名乗ったので、奈良氏の祖と言われています。」なのだそうです。

と言うことで、奈良三郎を知るためには、成田氏系図で、成田助隆なる人物を、調査

しなければならなくなりました。どんどん深みにはまりますねえ、、。

でも昔と違い、今はネット検索ですから、実際の調査は、サクサクと行けるんですよ。

 ※熊谷デジタルミュージアム⇒常設展示室⇒文化財の部屋⇒256奈良三郎の墓より

 

で成田氏とは、平安末期から江戸期まで続いた、北武蔵出自の名門在地領主の家系です。

近年では、小説や映画で「のぼうの城」が大ヒットしたおかげで、戦国大名の成田氏が、

がぜん注目されるようになりました。埼玉県行田市の忍城の殿様として、北条攻めの豊臣

秀吉軍の、あの石田三成と戦っても負けなかった、のぼうの殿さまが、その成田氏です。

また成田氏系図とは、江戸時代初期に、成田氏の末裔、成田長任が作った成田氏一族の

家系図で、塙保己一の「続群書類従」に収められています。

その成田氏系図によると、元の出自は藤原氏?(貴族)で、武蔵守として赴任して?、

助隆の代に成田郷(熊谷市上之)に居住し始め、その地名を氏姓として、成田太夫助隆を

名乗るようになった、とありますが、まあ藤原氏起源説は、詐称(嘘)でしょうがねえ。

自身の家柄を良く見せかけるために、豊臣秀吉だって、藤原姓を名乗っていますからねえ。

 

<以下、今回の追記部分です。>

多分実際の成田氏は、武蔵の新興武士団、横山党起源説の方に分があると思われます。平安時代までは、

貴族(公家)にしか姓・名字は無かったのですが、平安後期に入りますと、東国には数多くの武士団が

勃興して来ます。これらの新しい武士団が、何と自ら勝手に?、氏姓を名乗るようになったのでした。

でも古代から、兵士としての武士は存在していましたよね?  この氏姓を名乗る東国武士団は、従来の

武士・兵士と、何が違うのでしょうかね? 実はこの背景には、土地(農地)の所有形態の変貌という、

状況変化があったのでした。元々古代律令制度においては、全ての農地は朝廷(国家)のものであり、

農民は収穫した租税を納めるだけの存在でした。ところがこれだと農地が変わらないので、租税の量が

増えないんですよね。そこでその後、税収を増やすために、新たに開墾した農地は、私有が認められるよう

変更されたのですが、これが荘園の始まりになりました。しかし農地私有は認められたとしても、租税は

納めねばなりませんわね。この頃の徴税は、中央政権から派遣された国司によって管理されていたのですが、

国司の手を逃れ、租税を減免して貰うために、開拓した荘園を、免税の寺社や有力貴族へ名目的に寄進する、

という動きが出て来ます。(今も昔も、考えることは皆同じ?)で自分達はというと、荘司・荘官として、

荘園の実質的支配者になって行くんです。まあそれでも西国においては、京に近いこともあり、名目的領主

である、院や有力貴族による荘園管理もそれなりに行われていたのですが、都から遠い東国地方においては、

名目的領主による支配が及ばない状況になって行ったのでした。

 

さてこの時までの武士(源氏や平氏)は、院や有力貴族の臣下で、単なる兵士としての役割・身分しか、与え

られていませんでした。それでも保元・平治の乱での活躍によって、平清盛は武士として初めて、太政大臣に

まで登りつめることが出来た訳です。しかし源氏も平氏も、東国武士団とは全く異なる存在であったのでした。

 

そのような中、東国においては、武士団が発生します。彼らは、名目的荘園領主(貴族)に対抗し、自分達が

入植し開墾した土地の所有権を主張するために、自分達の所有する土地(本貫地)の地名を、自身の名字として

名乗るようになります。源氏や平氏は別として、これが武士の氏姓の発祥となります。つまり東国の武士団とは、

もともと武士だった訳ではなく、実は農民なのですよ。武装農民ですわね。自分たちの所有する土地を守り抜く

ために武装した、新しい農民の形態としての武士団だったのでした。ですから戦のないときは、ただの農民の

親玉なのですよ。この点において、従来の専業武士(兵士)とは全く異なることになるのです。

 

で東国武士団では、子孫が分家して、別の土地に入植したりしますと、新しい土地の名を名字として名乗るのですが、

必ず本姓(本貫地名)は別に、皆ちゃんと持っているのでした。「本姓(性)を現す」と言う表現がありますが、

本性(性格)ではなく、まさしく本姓(本名)でして、「お里が知れる!」と言う意味なのですよ。

 

 さてこのように発生した、東国武士団成田氏の祖である成田太夫助隆は、最初に、熊谷市上之の成田郷に入植し、

成田助隆を名乗り、成田氏の初代となったのでした。時代は多分、保元の乱(1156年)を描いた保元物語に、

源義朝方の家臣に子の成田太郎の名前が見えるようですから、平安時代末期のことであったのだろうと思われます。

成田氏が、良く知られる忍や騎西郡へと、その領地(本貫地)を移し・広げて行くのは、だいぶ後の話しなのです。

また成田太郎は、源義朝(源頼朝の父親)の家臣でしたから、次の鎌倉時代(源頼朝の代)に入りますと、成田氏の

一族も当然、鎌倉幕府の御家人の一員になる訳なのです。

さて掲載写真は、初代成田助隆も居住したと思われる、熊谷市上之の、「成田氏館址」の碑です。今は何も残っては

いませんけれどねえ。でもこの石碑も、熊谷市が認定する指定記念物・史跡になっています。

でも成田氏の史跡を巡るのであれば、近所の「上之村神社(元久伊豆神社)」の方が良いと思われますけどねえ。 

さて、成田助隆のことが判った所で、果たして奈良氏の祖?、であるらしい奈良三郎の詳細などは、本当に判るので

しょうかねえ?(次回へ)

 

※成田氏館跡の住所:埼玉県熊谷市上之544