元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史の調査手法について、色々と書かせて頂いて
おります。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。
ここに来て、ようやく寒い日が続くようになりましたね。これが普通なハズなんですが。
さて前回は、江戸期のご先祖調べで、ご先祖が江戸や大阪在住の平民=町人 であった場合、
そのルーツを遡ることが難しいのだ、というお話しをさせて頂きました。まあ江戸の町人と
言いましても元々は地方農家の次男坊・三男坊がほとんどな訳ですが、年少期の丁稚奉公時
に、主人から名前を改名させられているんですね。(商家だけじゃなく、職人も同様です。)
当時の名付け風習は、修行中に里心が付かないようにするための工夫なんですけどね。
ですから名前については、江戸に出てきた時にリセットされてしまっているので、江戸っ子
が何代か続くと、もはや名前では、江戸っ子以前には遡れない状況になってしまうのでした。
まして江戸期の町人は、建前上名字は名乗れません。そこで江戸町人は、ある一定の年齢・地位に到達
しますと、店の屋号や体の特徴などを、名字の代わりに名乗ったのでした。「紀伊国屋文左衛門」とか、
「左甚五郎」とかですね。(※左甚五郎は左利き) その結果、先祖調べが益々分かりにくくなったのでした。
私の奈良姓の調査でも、一応江戸の奈良姓の有名人を調べました。がしかし、屋号が姓になっているため、
江戸町人は、良く判りませんでした。Webの検索で良く出て来るのは、「奈良茂左衛門」あたりですかね。
あまりご存知ありませんかね? 江戸中期の著名な豪商(材木商)です。度重なる江戸の大火で大儲けをした
材木商として知られています。しかし商家ですので奈良は、屋号なんです。正式には「奈良屋茂左衛門」で、
奈良屋の主人は代々、この名前を名乗っていました。特に有名なのが四代目と五代目で、江戸の大火復興で
巨万の富を得たのが四代目で、先代から引き継いだ富を、吉原の遊郭通いで放蕩し、奈良屋を衰退に導いた
のが五代目として有名です。で特にこの五代目のことを、屋を取って「奈良茂左衛門」と呼んでおります。
ですから江戸期の奈良姓でWeb検索すると、良く出現したのですね。解説では、姓は「神田」とありますが、
私はこれも怪しいと思っています。神田は多分、初代の奈良屋茂左衛門が住んでいた地名です。つまり神田の
茂左衛門さんが奈良屋を創業した、という意味だろうと思いますね。ですから、奈良姓とはあまり関係が無い
人物のように思われるのでした。これと同様に「奈良屋」を家名(屋号)とする江戸の有名人物としては、12代
に渡り、代々江戸の町年寄(奉行の下の町役人)を務めた「奈良屋市右衛門」なる人物もいたようです。何でも
本能寺の変で徳川家康が三河に逃れる「伊賀越え」の際に、その手助けをしたことで家康から取り立てられて、
家康より江戸の町年寄に任命されたそうです。まるで佃島の漁民伝説のような話しですわね。更にこの奈良屋、
自分の先祖は武家の「大館氏」で、昔は奈良に住んでいたので奈良屋を名乗った?、とのことですが、まあ
本当は伊賀の農民だったと思いますね。ですから取り立てられたのだとしても身分は町人なんです。本当は、
武士身分になりたかったのかなあ? だって室町時代末期の伊賀国では、「大館氏」は武家の名家でしたからね。
それでも江戸町人のトップ役人にまで上り詰めたのですから、大したものです。(お奉行様は、武士身分よ。)
またその後の天保年間に「奈良屋市右衛門」は、「舘」の姓を名乗ることを許されたそうですから、ある程度
望みは叶えられたのでしょうね。で、俳優の「舘ひろし」は、「奈良屋市右衛門」の子孫なんでしょうかね?
ちなみに江戸町年寄は、奈良屋の他に樽屋、喜多村屋の御三家が担当していたようなんですけどね。
と言う訳で、この奈良屋も、奈良姓の由来とはあまり関係が無かったようです。このように江戸期から始まる
屋号としての奈良屋は、現在も、草津温泉や箱根温泉の旅館奈良屋など、全国各地に色々存在するのですが、
奈良姓の歴史とはあまり関係がないだろう、というのが私の結論なのです。(次回へ)

コメントをお書きください