元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いて
おります。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。
明日から12月と言うことで、冬の寒さになりましたですねえ。
さて前回は、右の奈良源三郎墓写真と、明治期のウチの先祖の戸籍簿を
照合することによって、ようやくこの墓が、私の5代前の高祖父の墓で
あることが確認出来た、と言う経緯についてご説明させて頂きました。
確認出来たことは嬉しいのですが、父親清助が早く死に、後見人である
祖父源三郎も死んで、幼くして戸主となった私の曾祖父儀助のその後に
ついては、何故か心配になってしまうのでした。
そこで戸籍簿を調べてみますと案の定、寂しい末路が見え隠れしたの
でした。明治10年源三郎が死んだ直後は、戸主となった8歳の儀助には、
姉のくりとくりの婿養子に入った文次郎がいたため、何とか奈良家
は維持されたのですが、その後姉のくりが死去すると、婿養子の文次郎は、
別の女性りろを後妻として奈良家の分家を興します。本家には成長した儀作と、
妻のすわが残りますが、この頃には既に奈良家でも、りんご栽培を始めていたと
思われます。年代は、明治20年頃でしょうか。翌年の明治21年には、私の祖父
となる長男源太郎が誕生しています。この頃はリンゴ栽培も、それなりに順調で
あったのでしょう。ところがその後戸籍簿上では、奈良家に悲劇が訪れるのです。
明治39年5月に突然、奈良家は、養女なさを迎え入れ、直後に婿養子だった分家の
奈良文次郎の次男武之助を、養女なさの婿養子として、受け入れているのです。
つまり儀作の奈良家は、かつて奈良家の養子であった、文次郎⇒武之助の系統へと、
変わってしまったのでした。一体何があったのでしょうかね?
戸籍簿からは、何も判りません。しかし私は、この時、数年前から続いていたリンゴ
病害虫被害発生によるリンゴ栽培の失敗、そして借金の問題が、深く関係しているに
違いないと考えるのです。ですから儀作、源太郎一家は、家と土地を手放し、北海道
室蘭市へと、移住しなければならなくなったのですよ。まあ養子縁組をすれば、奈良の
家名だけは、残せますからねえ。情けないけれど、やはり、元武士の家なのですよ。
もしかすると、婿養子の文次郎が、奈良家の存続を助けてくれたのかも知れません。
しかし奈良儀作・源太郎一家は、以降二度と故郷である青森県藤崎町を、訪れること
は無かったのでした。まあ恥ずかしくて、訪問出来なかったのでしょうね。
(平成17年に、儀作・源太郎の子孫達が訪れるまでは、、、。)
そして再び掲示写真に戻ると、奥の奈良源三郎墓の手前隣りに、現代の奈良家の墓石
が建立されています。多分この墓は、奈良文次郎⇒武之助・なさから現代にまで続く、
藤崎町奈良家の墓なのでしょう。ですから、奈良源三郎墓の隣りに、敢えて建立されて
いるのですよ。私はこうしてようやく、奈良源三郎の墓の秘密を、理解したのでした。
やはり結論としてこの墓は、明らかに私の先祖の墓だったのです。(一旦了、次回へ。)

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