奈良源三郎の墓は、私の高祖父の墓であった!

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。 昨日より、冷たい雨が降り続いています。寒いですね。

 

さて前回は、墓の寺の住職から、奈良源三郎の墓は、家紋が違うのでウチの墓ではない?、と言われたことに対し、

その家紋を付けた理由について、独自の推測を書かせて頂き、ウチの先祖の墓に違いないと、書かせて頂きました。

まあ当時の筋書き可能性としてはあり得る話しなんですが、あくまでも推論なもので、確証は乏しかったのでした。

しかしこの写真を発見したことによって私は、遂に証拠が見つかった!と、ウチの墓である確信を得ることが出来た

のでした。(だって私、親父達とは違い、祖先の地である青森県藤崎町を、実際に訪問したことはないのですよ。)

掲載の写真なんですが、左奥の墓石2つは、今までずっと話題にして来ました、奈良源三郎の墓です。で右手前の墓

は、現代の奈良家先祖代々の墓(家紋も同じ)で、隣り合って建立されているのが特徴ですね。でも、隣り合って

いるから、また隣りの墓石の家紋がウチと同じだから、と言う理由で、奥の奈良源三郎の墓がウチの墓である、と

言うことは出来ません。奈良家の墓石は、この墓地内にも、多数あるそうですからねえ。(まあ全員、間違いなく、

遠縁ではありましょうけどね。)

 

実はこの写真には、別の読み解くべき記載が表されているのでした。それこそが、私がウチの直系の墓石であると

確信した理由になったのでした。それは何か?と申しますと、写真中央部、奈良源三郎墓石の右側面に、明治7年の

墓碑銘を発見したから、なのです。これ、実はおかしいんです。奈良源三郎墓の正面墓碑銘によれば、源三郎は明治

10年に死去し、それ以降にこの墓が建立されているのです。ですから正面の墓碑銘には、それ以降に死去した親族が

彫られ、合葬されているのです。ところが側面の墓碑銘は、墓が建立される以前なのです。まあよくあるのは、先に

死去していた源三郎の両親などを、墓の建立を機に、合葬することです。しかし本人死去の3年前、というのは少し

不自然なのですね。これは何かあったに違いないと思い、早速ウチの最も古い、明治期の戸籍簿を確認しました。

すると戸籍簿から、意外な事実が判明したのでした。明治期の戸籍簿では、没年は良く判らないのですが、いつ戸主

を相続したのかは、判るのです。この相続記録で、実に面白い事実が、明らかになったのでした。墓の主奈良源三郎

の次に、相続により戸主が変わったことが判るのですが、その時期が、源三郎が死去した明治10年以降の相続では

ないのですよ。何と、明治8年に、子の清助ではなく孫の儀作が、僅か6歳!で、新しい戸主になっているのでした。

これは衝撃的な史実です。何が起きたのかは、容易に判りますね。奈良源三郎の息子清助が、まだ幼い儀作を残して、

明治8年以前に、死んでしまったのですよ。ですから年老いた戸主源三郎は、自らが後見となることによって、6歳の

孫、儀作を奈良家の戸主に据えたのでした。しかし悲劇はまだ続きます。相続から僅か2年後の明治10年に、後見人

である祖父源三郎も、この世を去ってしまったのでした。戸籍簿と照らし合わせることにより、このような史実が

判明したのでした。そこで、奈良源三郎の墓石に戻ります。側面に明治7年の墓碑銘が見えます。そうです、この明治

7年に死去し、源三郎墓に合葬されたのは、儀作の父、清助だったのです。

この戸籍簿と墓標との合致により、奈良源三郎墓は、ほぼ間違いなく、私の直系の先祖の墓である、という確証を得る

ことが出来たのでした。心光寺の住職のご指摘は、何と間違いだったのでした。

 

でもまあ、そのこと自体は良かったとして、しかしこの青森県藤崎町の奈良家の行く末、少し心配ですよね? 

戸籍簿上ではその後の行く末、一体どのようになって行ったのでしょうか?(次回へ)