元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、
誠に有難うございます。この頃になってようやく、木枯らしの秋がやって来ましたですね。
さて前回は、私の5代前の高祖父である奈良源三郎は、鹿角奈良氏の末裔に違いないであろうことは判ったものの、
青森県藤崎町の心光寺にある奈良源三郎墓(写真)は、果たしてウチの高祖父の墓なのかどうか?が、私にとっての
最後の問題になったのでした。心光寺の住職は否定的だったからです。その理由は、家紋が違っていたからなのです。
写真墓石の家紋を、拡大してご覧下さい。それで、次写真がウチの奈良家の家紋「丸に二つ引き紋」ですが、ウチだけ
ではなく、青森の奈良家では広く使われている家紋で、心光寺の墓地内にも、この紋の奈良家の墓は、多数あったよう
なのです。この紋は、室町足利氏一門とその家臣の家紋として、広く用いられています。青森の奈良家で広く使われて
いる理由は、室町期に代々、幕府管領家であった細川京兆家(足利氏)に重臣として仕えて城持ち領主にまで出世した、
奈良元安など、讃岐奈良氏の名声が影響しているからなのだろうと考えられます。
しかしながら、青森県藤崎町心光寺の奈良源三郎墓には、何故か、三つ目写真の「木瓜紋」が刻まれている訳なのです。
ウチの家紋とは、明らかに違うんですわねえ。どうしてなんでしょうか? さてこの難問、いかに読み解けば良いので
しょうかね?
私の考えでは、この木瓜紋、広く公家の家紋として用いられている点に、ヒントが隠されていると、思われるのです。
どう言うことなのかと申しますと、私の高祖父奈良源三郎は、戸籍簿調査によれば、江戸時代文化期(1804~1810年
あたり)の生まれで、間違いなく下級弘前藩士の身分であったハズなのです。以前のブログでもご紹介させて頂いた
のですが、明治5年の廃藩置県で藩士が失業する際に、士族身分であることを証明するために、各家に由緒書きを提出
させているのです。で、この由緒書きが実にいい加減でして、自分の家の家系に誇大権威付けをしている訳なんです。
例えば先祖が公家だ、などと書いていたりするんです。まあある意味個人情報である訳ですが、各家より提出された
由緒書き史料は、陸奥国弘前津軽家文書等に保管されています。でも当時はそんな嘘でも、士族卒族の身分が守られると
思ったのでしょうねえ。私は、墓の主奈良源三郎も、先祖が公家であるとの誇張した由緒書きを提出したに違いない、
と考えます。ですから明治10年に60代後半で死去した際の墓の家紋も、5年前に由緒書きを提出していたので、あえて
一般的な公家の家紋である「木瓜紋」にしたのでした。このような努力で、士族卒族の身分を守ろうとしたのですが、
残念ながらその後の戸籍簿では、「平民」になってしまいました。結局は農民になるしか、なくなったのですねえ。
で、写真にはもうひとつ、右の家紋があるのですが、これ「剣唐花紋」と言います。誰の家紋か?と言うと、実はあの
細川四天王、讃岐奈良氏の家紋なんです。そして讃岐奈良氏は、遠い先祖は同じですから、間違いなく青森奈良家とも、
遠い遠い縁戚であるハズなんです。
ですから、由緒書きに公家の先祖!などではなく、讃岐奈良氏の奈良元安(聖通寺城主)の名前でも加えて、こちらの
家紋にしていれば、もしかすると士族・卒族の身分は守られていたかも?、、、、 なんてことは無いですわねえ。
しかし私は、以上のような考察経緯により、藤崎町の奈良源三郎の墓は逆に、私の高祖父の墓であろうと、確信するの
でした。 さてそれでは、このように確信する決定的証拠とは、いったい何だったのでしょうか?(次回へ)





コメントをお書きください