元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度
このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。早いものでもう11月です。眼底メディカルを廃業してから、既に2ヶ月が経過しました。
さて前回の、青森県のリンゴ栽培の歴史を辿ることによって、いよいよ私の直接の先祖
の状況についても、ある程度の推測が可能になって参りました。
私の祖父、奈良源太郎(明治21年生れ)が、生地青森県南津軽郡十二里村(現藤崎町)
でのリンゴ栽培を諦め、北海道室蘭市への移住を決断したのは、曾祖父儀作の代、明治
39年発生の最初のリンゴ病害虫被害の後であろうと思われます。明治40年当時まだ19歳
の祖父源太郎には既に、妻まさ、長女たけと、長男源三郎がおりました。つまり妻子らを
引き連れての北海道移住だった訳です。また実家である儀作のリンゴ農家の方は、養女
なさを迎え、更に甥の武之助をなさの婿養子に迎えるという不可解な動きにより、同じ
奈良姓とは言え、青森奈良家は、祖父源太郎一族とは別の家系へと、変貌して行ったの
でした。つまり長男の源太郎には、帰る実家も無くなっていた、と言うことなのです。
(曾祖父奈良儀作の戸籍簿調査により。)
何が起きていたのか?、本当のところは良く判らないのですが、リンゴ栽培の失敗による
借金問題あたりが、可能性の高い理由であろうと思われます。いずれにせよ、このような
背景の中、祖父奈良源太郎は、北海道室蘭市へと移住することを決意したのでした。
しかし何故、移住先が東京あたりではなく、北海道室蘭市だったのでしょうかね?
まず源太郎の側には、移住してすぐに稼がなければならない、と言う事情があったのだ、
と思われます。だから、農業じゃあダメなんです。でも弘前や青森市には、すぐに稼げる
良い仕事がありません。そこで目を付けたのが比較的近い新興都市、室蘭だった訳です。
室蘭は既に、明治30年代から鉄道(室蘭・岩見沢間)が引かれ、石炭の積み出し港として
賑わっていました。更に直近の明治40年には、北海道炭鉱汽船(北炭)と英国アームストロング社、ヴィッカース社の共同出資により、日本海軍最大の兵器工場となる日本製鋼所
室蘭が設立され、続く明治42年には、北炭の出資による日本製鉄(輪西)製鉄所も設立され、
室蘭市はいよいよ、鉄の街室蘭として、広く知られる存在になって行くことになるのでした。
このような状況を知った私の祖父:奈良源太郎は、室蘭に行けば、すぐに稼げる仕事があるに
違いないと、思ったに違いありません。まあやはり多額の借金があったのかも知れませんね。
それが証拠には、祖父源太郎一家は、北海道室蘭市に移住して以降、一度も故郷であるはずの
青森県藤崎町には、帰っていないらしいからです。故郷を捨てたのかも知れません、、、、
明治末期に北海道室蘭市に移住して以降の祖父、奈良源太郎一家の動静については、実は良く
判っておりません。源太郎の子供達10人も、既に全員死去してしまっているからです。
私も、父親や伯父・伯母の若い時の経歴は聞いていても、祖父については何も聞かされては
いなかったのでした。ただ、当時の住所を室蘭市御崎町御前水に定めているところを見ると、
すぐそばには、日本製鋼所の各事業所が多数ありますので、日本製鋼所(軍需)関連の仕事を
していたのかも知れません。室蘭の日本製鋼所の軍需兵器部門は、機密保持のため、当時は
徹底的に情報管理統制されていましたからねえ。
ですから敗戦後には、軍需工場が閉鎖されたため、源太郎の長男源三郎(またまた長男源三郎!)
は、御崎町御前水を去り、何故か高砂町で室蘭工業大学の学生相手に、下宿屋を営むことになります。
でもこの頃はまだ、祖父源太郎も存命なのでした。(昭和29年没)
また、私の父の兄の正彦も室蘭在住でしたが、戦後は日本製鋼所ではなく、富士製鉄(新日本製鉄)
の運転手として勤めたのでした。ちなみに私の父義一も、室蘭在住ながら、商家に勤めています。
まあこのように、青森県藤崎町出自の奈良家と現在の私は、こうして繋がっている訳なのですが、
それでは写真の高祖父奈良源三郎の墓?は、何故ウチの先祖の墓ではない?と、言えるのでしょう
かね? (次回へ)

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