元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度この
ブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。
これまで奈良姓の発祥から始まり、その後各地に散らばった奈良姓の人々の活躍と繋がりについて
、見て参りました。そしていよいよ、私の直系の先祖が、今まで見て来た奈良姓の歴史の中に、
しっかり繋がって行くことが出来るのかどうかが、最大の焦点になって参りました。これからは
この課題(最終的に私と繋がるのかどうか?)を、じっくりと解きほぐして行きたいと思います。
今後は、かなり私的な話題も多くなってしまいますが、何卒ご勘弁頂きたいと思います。
さてこの写真は、以前のご挨拶ページでも紹介させて頂きましたが、私の父を含むウチの奈良家
一族が、平成17年に先祖の地である青森県藤崎町を訪れた際、心光寺の共同墓地で発見した、
ウチの先祖の墓か?、と思われた、奈良源三郎の墓の写真です。
この奈良源三郎が私の先祖であるとすると、明治期の戸籍簿調査によれば、私の5代前の先祖で
あると言うことになります。そして我が奈良家の伝承によれば、明治後期に、2代前の祖父奈良
源太郎の代に、リンゴ農家をやめて北海道室蘭市へと移住して来たらしい、と言う話しでした。
さてこのような伝承に、歴史的背景・史実などは、あるのでしょうか? と言う訳で、明治期の
青森県のリンゴ栽培の歴史を、少し振り返ってみたいと思います。
明治5年(1872年)に、明治政府による卒族(下級武士)廃止と扶禄制度の整理が行われると、
旧弘前藩下級藩士も食べて行けないため、帰農帰商推奨により、武士をやめて、農民や津軽塗の
職人などになる者が出始めます。しかしながら当時の青森県は、米作の北限地で、やませの影響
により、毎年の冷害不作が続く厳しい農環境にあり、農業ではなかなか食べて行けないのでした 。
そんな青森県へ明治8年(1875年)、殖産興業の一環として、内務省よりリンゴの苗木が配布され
ました。これも失業士族達への就農対策だったのでした。そして5年後の明治13年(1880年)、
青森県庁内に試植された苗木が結実し、リンゴが初めて収穫されたのでした。リンゴの栽培は、
寒い青森県に適していたのですね。この成功を受けて明治17年(1884年)、旧弘前藩士族11人が、
リンゴ栽培をめざして「果樹会」を結成します。そして遂に明治19年(1886年)には、藤崎村に
於いても、佐藤勝三郎、長谷川誠三らにより、7.5ヘクタールもの大規模リンゴ栽培会社「敬業社」
が結成され、その後県内各地に大規模リンゴ農園が、続々と誕生し、この青森リンゴ栽培事業は大成功を
収めました。「リンゴは、金の成る木。」と呼ばれるまでになりました。多分この頃、ウチの先祖の奈良家も、
一攫千金を目指して、リンゴ栽培に参入したのだろうと思われます。もしかすると「敬業社」の小作農かな?
と言う訳で、旧士族による農業参入策として、リンゴ栽培が青森県内に広がって行ったものですから、初期の
リンゴ栽培農家は、弘前市近郊が多いのでした。
その後明治24年(1891年)には、上野・青森間の鉄道が開通し、木箱に詰められた青森リンゴは、東京の
神田市場へと、直接届けられるようになりました。ところが明治30年代に入ると青森のリンゴ栽培農家は、
大規模病害虫被害に、度々襲われるようになり、藤崎村の「敬業社」も明治34年(1901年)には解散して
しまいます。しかしそれでも袋掛け対策などにより、病害虫被害は一時的に収まり、青森のリンゴ農家は、
何とかリンゴ栽培を続けて行ったのでした。
しかしところが、袋掛け対策にも拘わらず、明治39年頃になると、再び大規模病害虫被害(モニリア病)が
大発生しました。この二度目の大規模被害により、リンゴ栽培を諦める農家も現れるようになりました。
この二度目の大規模病害虫被害発生により、遂にリンゴ栽培を諦めて北海道へ移住したのが、私の祖父である、
「奈良源太郎」であろうと思われるのです。移住は、明治40~41年頃(1909~10年)のことであったろうと
思われます。
祖父源太郎は、明治21年(1881年)9月の生まれですから、当時の年齢は、19歳~20歳ぐらいであったと
思われます。南津軽郡十二里村(現藤崎町)の実家には、曾祖父奈良儀作がまだ38歳ぐらいでおりましたし、
奈良家実家の農業は、養女である姉「なさ」(明治17年生まれ)が、婿養子「武之助」(明治14年生まれ)
と結婚することにより、引き継がれて行くことになります。ですから祖父源太郎は、考えようによっては、
比較的自由に、新天地を目指すことが出来たのだ?と思われます。でも祖父源太郎は、どのような理由から、
北海道への移住を決意したのでしょうかね?(次回へ)※次回よりブログは、毎週土曜日の更新になります。

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