元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いて
おります。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。
本日は久しぶりの晴天です。昨日晴天だったら良かったのですが、、。
さて前回は、現在の群馬県前橋市や邑楽郡に多数残る奈良姓の方々の
歴史的由来について、色々推論してみましたが、多分「上杉禅秀の乱」
での恩賞による新補地頭としての入植であったのであろうと思われます。
室町期においては、武士兼農民の在地小領主としての地頭が、まだまだ
存在していたのだと、考えられるからなのです。
奈良姓の人口比を調べておりますと、群馬県と同様に、山梨県上野原市や
大月市に於いても、何故か多くの奈良姓が偏在していることが判ります。
(電話帳検索などで、簡単に調べることが出来ますよ。)今回は、この
理由について、考えてみます。 しかし甲斐国には、奈良別命もおらず、
戦国期までずっと武田氏が支配しておりましたので、奈良氏の付け入る隙
は、ほとんど見当たらないのでした。でも実際に現在までも奈良姓が数多く続いて
いることを考えると、戦国期以降の入植であることは間違いないのです。何故なら
戦国末の武田氏滅亡後には、甲斐の領主は、ころころ代わっているからなんです。
しかしそれでも、武蔵の田舎武士が入植する機会なんて、見当たらないように思えた
のでした。もちろん奈良氏甲斐入植に関する史料や伝承など、あるハズもありません。
で、困った私が、唯一注目したのが、寛永10年(1633年)秋元泰朝の前橋総社藩主から、
都留郡谷村藩への転封(国替え)の史実だったのです。実は前谷村藩主であった鳥居忠房は、
徳川忠長の家臣でもあったのですが、忠長と兄である三代将軍徳川家光との確執により、
徳川忠長が改易・謹慎になると、家臣の谷村藩主鳥居忠房もこれに連座して、改易になって
しまったのでした。そして新たに谷村藩主に任命されたのが、前橋総社藩主であった
秋元泰朝だったのでした。特に藩内に問題無かった谷村藩の領民・農民の間には、突然の
藩主改易で、当然動揺が広がった訳です。そこで新藩主秋元泰朝は、信頼する奈良姓の
有力地頭農民を、治世掌握のため、旧領前橋総社藩より引き連れて、国入りしたのだろうと、
考える訳なんです。こうでもしないと、江戸期に他の領国から入植なんて出来ませんですよ。
この時代江戸前期はまだ、戦国期の余韻も残っていて、武士と農民との境界も明確ではなく、
農村の有力者は、まだ庄屋(名主)ではなく、地頭であったのだろうと思われるからなのです。
写真は、秋元泰朝の居城前橋総社城跡の風景ですが、現在は何も残っていません。都留郡谷村藩
への転封後すぐに、廃城となったそうです。まあ農民も引き連れて行ってしまいましたからねえ。
と言う訳で、無論証拠は無く、推論だけなのですが、このように考えると、山梨県の上野原市や
大月市に、何故か奈良姓が多い理由も、それなりに納得が出来るのです。
そして地頭としての入植であったとしたら、代々村の有力者であったハズなんです。そこで2005年
上野原市の初代市長(上野原町最後の町長)の名前を見てみますと、奈良明彦氏!となっています。
長年に渡り、この地区の農地・治水改良に取り組まれて来ていて、「歴史伝承マイスター」として
表彰されているそうですね。この地で代々、農民であられたようです。すると山梨県の奈良家も、
現在に至るまでしっかりと、続いていたようですわねえ。(次回へ)

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