群馬県内の奈良姓について、

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いて

おります。毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。

徐々に秋は、深まって来ておりますね。

 

さて今までのブログで、秋田県・青森県、香川県の西讃岐地方に、奈良姓が

比較的多い理由に付いて、ご説明させて頂きましたが、他の都道府県での人口比は、どのような状態なのでしょうか? 他にも奈良姓の多い県や市町村が、

あるのでしょうか? と言うことで、私がいつも活用させて頂いている

「日本姓氏語源辞典」等によれば、絶対数では東京都が最も多いことは、

人口の関係で致し方ないとして、人口の比較的少ない群馬県にも、他県に比べ、多数の奈良姓(2400人程)が存在していることが判ります。

それも市町村レベルで調べると、邑楽郡と前橋市の割合が際立って高いのですよ。 偏在しているのですね。これは何か、理由があるに違いありませんが、

調べてみても、決定的な史料・史実などは、発見出来ませんでした。

 

無難な考え方としては、室町期での成田氏の発展過程の中で、成田氏一族である

奈良氏も、戦功によって所領を得て、この地に入植した、と言う可能性ですかね?

具体的には、応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」で、奈良氏を含む成田氏一族は、

鎌倉公方足利持氏方の家臣として戦い、恩賞を賜った、との記載が「郷土忍の歴史(稿本)」 

にあるため、邑楽郡などに、地頭として入植出来たのかなあ?と、考えた訳です。更に

推測なのですが、奈良氏は、秋元氏と同族関係にあったと考えるのです。実際、以前紹介の

鹿角由来記では、鹿角四頭として奈良氏と秋元氏は、一緒に鹿角郡に入植しているからです。

従って上杉禅秀の乱の際、秋元氏は奥州管領家である深谷上杉家の家臣であったのですが、

奈良氏も当時は同様に、深谷上杉家の家臣であった可能性が高いだろうと思われるのです。

その後小田原の後北条氏の台頭により、深谷上杉氏が北条氏の軍門に下ると、秋元氏や成田氏

と共に奈良氏も、北条氏方に与するようになります。でこの頃奈良氏は、秋元氏の家臣になった

のだと思われるのです。だって秀吉の小田原攻めの時、秋元長朝は、北条方深谷城代ですからね。

しかし小田原北条方は敗北し、奮闘した秋元長朝も追われるのですが、奥州仕置軍の井伊直正

は、その奮闘ぶりを評価し、徳川家康に推挙したため、秋元長朝は、家康の家臣に取りたてられ、

上野国総社(群馬県前橋市)に、所領を与えられたのでした。私はこの時、奈良氏も秋元長朝の

家臣として、一緒に前橋市に、地頭として入植したのだろうと考えます。そしてこのことは、

その後の甲斐国都留郡への奈良氏の入植にも、深く関係して来るのですよ。

まあ確証は無いんですが、比較的無難な考え方だと思われます。でも、ロマンが無いですよね? 

 

そこでもうひとつ、突飛な説を。万葉集!の巻14中に、「上つ毛野、伊奈良の沼の大蘭草、

外に見しよは 今こそまされ。」(詠み人知らず)、と言う歌がありまして、この歌碑が、

上野国邑楽郡伊奈良村大字板倉(現、板倉町雷電神社)に建っております。万葉の歌です

から、古代です。だから国名も、上野国ではなく上毛野国(群馬県)なのですね。

で「伊奈良の沼」は、板倉町中心部の雷電神社に隣接する沼(写真)ですが、昔はもっと

大きな沼だったようです。伊奈良村にある伊奈良沼な訳ですね。そこで私、考えました。「伊」

についてなのですが、語調を整える「伊」の使い方がありまして(漢字ペディア)、意味は、

「これ、この、」だそうです。とすると、伊奈良の沼は、「これ奈良の沼」とも解釈出来る

訳でして、これ奈良の村で、これ奈良の沼とすると、これはもう、古代の武蔵国幡羅郡の

奈良村を想起してしまう訳です。そうです、あの奈良別命ですね。皇子豊城入彦命の子孫で、

毛野国の初代国造と言われています。この沼が、奈良別命と関連があるとすると、地名の

奈良の名前が先にあり、中世武士団の奈良氏とは関係なく、郷民が奈良の姓を名乗ったこと

だって、考えられる訳なんです。もっとも、沼の伝説の方では、奈良別命ではなく、聖徳太子

の事績になってしまっているんですけどねえ、、、。(聖徳太子が来る訳が無いのに、)

さて皆さんは、どちらの説に賛同されるでしょうか?(次回へ)