元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、誠に
有難うございます。またまた、台風が襲って来るようですね。被害が無ければ良いのですが、、、。
さて前回は、明治・大正期の秋田奈良家の奈良磐松の紹介文の同窓会ホームページで、「秋田の奈良家は、弘治年間
(1553~58年)に大和小泉村(奈良県生駒郡片桐町小泉)から一族とともに、出羽の豊川村(南秋田郡昭和町豊川)に
移住したことに始まる。」と言う衝撃の記載があることをご紹介しました。秋田奈良家が、鹿角奈良氏の末裔である、
という主張の根底が崩れてしまいますよねえ。さてどうしたものか?と、思いあぐねておりますと、面白い史料を発見
しました。それは、昭和期の秋田奈良家で活躍された、奈良環之介さんによって書かれた記事から判ったことなのです。
右写真の奈良環之介さんは、明治24年に秋田奈良家の分家に生まれ、郵便局長、秋田市議、農協組合長や秋田市美術館の
初代館長などを務められた、政治家・文化人・民俗学者です。で、昭和42年(1967年)の秋田県の発行する県政誌
「あきた」に寄稿しているのが「奈良家の故地を訪ねて」と言う記事なのでした。まさに、どんぴしゃのテーマなのです。
メニューの史料リンクのページに、リンクを貼って置きますので、全文をご確認下さい。
この中で、「秋田金足小泉の奈良家は、代々、弘治年間に、大和の小泉から移って来たと、聞かされて来た。」と述べて
おりまして、その証拠として環之介氏の祖父、奈良茂氏(本家ですな)や曾祖父、奈良喜兵衛の伝記に、その記載がある
ことを挙げています。がしかしこれは、この移住伝説が代々引き継がれていることの証拠にはなりますが、大和から移住
して来た伝説の証拠になるものではありません。また、弘治年間(1553~58年)に移住して来たとすると、奈良家の系図
を書いた6代奈良喜兵衛(寛永5年~元禄5年:1628年~1692年)の年代と勘案すると、年数が足りないことも環之介氏は
指摘されています。さすが民俗学者でありますが、家伝には逆らえないみたいです。
続いて環之介氏は、大変興味深い史実について述べております。それは、豊川(秋田県潟上市昭和町)にも多数の奈良家が
あって、金足の奈良家の菩提寺も豊川にあって、先祖は豊川から金足へと、更に移住して来たのだ、との記載があるのです。
これは多分史実でしょう。実際に現在の潟上市昭和町豊川周辺も、奈良姓、南都姓だらけですから。この事実(史実)を、
どのように考えるか?、なのです。また豊川には、楠正成の遠征由来伝説もありましたが、証拠は見つけられませんでした。
それで環之介氏は、伝説の奈良家の故地(奈良県生駒郡片桐町小泉:大和郡山市小泉町)を訪ねて、その証拠を探し出
そうとしたのでした。しかし、小学校や郵便局、個人宅、寺院などを色々巡ったようですが、結局奈良家の痕跡は、発見
出来なかったようです。小泉という共通の地名の由来が唯一の収穫であった、とのことでした。後は、家伝の想像記です。
さてこの記事をどう読み解くか?、なのですが、奈良姓の人口動勢から解きほぐす、私の立場からすると、当然の結果で
あったと考えられるのです。まず現在でも、奈良県大和郡山市には、奈良姓も南都姓も、ほとんど存在しないのですから、
環之介氏が小学校や郵便局を訪問した当時も、存在を確認出来なかったのだと思われます。ですから個別訪問時の結果を
書いておられません。それで仕方なく、旧家佐藤さん宅訪問になったのでしょう。民俗学者としての執念を感じますね。
また弘治年間での一族移民説には、かなりの無理があります。何故なら戦国期ではありますが、大和国添下郡でこの時期、
大規模な戦乱等は発生していないからです。武士や農民が移住しなければならない理由が見当たりません。更にこの時代、
農民が公然と移住することは、領主地頭から認められていません。ましてや国を越えての移住!など、もってのほかです。
これは出て行く側での問題だけではなく、移民を受け入れる領国・領主側にも問題が発生するからです。(現在も同じ?)
そして環之介氏は、海路で移住したと推測していますが、奈良家一族郎党が、移住するためには、大規模船団が必要だと
思われるのですが、渡航費用の部分でも、かなり無理があるように思われるのです。通常ならば移動は陸路でしょうね。
さてそれでは、この秋田奈良家の移民伝説?、いったいどのように読み解けば良いのでしょうか?(次回へ)



コメントをお書きください