戦国~江戸期における奈良氏の活躍?Ⅱ

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いて

おります。 毎度このブログをご訪問頂き、誠に有難うございます。

10月だと言うのに、昼間はまだまだ夏ですねえ。

今回は文書の掲示ではないので、従来のブログ形式に戻してみました。

 

さて前回までの九戸政実の乱の制圧を以って、豊臣秀吉の天下統一は

完成し、戦国の世は終り、その後西国では関ヶ原や大坂の陣はありますが、東国に於いては、比較的平和な時代が訪れます。ですから江戸期は

もはや、武士の時代ではないのですよ。(武士は、サラリーマンよ。)

と言う訳で、江戸期における奈良氏(家)の活躍を、色々探してみること

にしました。で、ネットで検索をしてみますと、上位結果のほとんどは、

江戸期の奈良県や奈良市の事例ばかりで、かなり下位で「近世鹿角学統考」の中に、南部藩に仕える儒学者:奈良譲山(円蔵)の名が、ちらっと見える程度で、詳細は不明でした。そんな中、比較的上位で、奈良家住宅

(秋田市)と言うのが、検索結果で出て参ります。これが旧奈良家住宅の

写真なのですが、要は当主が「奈良」の、江戸期の豪農の住宅です。

まあ全国各地によくある、古民家展示場のようですが、どうやら現在は、

秋田県立博物館の展示施設になっているようです。でもその江戸時代の秋田の

豪農:奈良さんと、武士団奈良氏の間に、何か関係があるのでしょうかね?

 

秋田県立博物館の説明文によりますと「旧奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦年間

(1751年~1763年)に、奈良家 9代 善政(喜兵衛)によって建てられました。」

とのことです。ほう!、と言うことは、秋田の奈良さん、8代前に、この秋田市金足の地に

移住して来たということですわね。(※あの甲子園の、金足農業高校の金足です。)

現在の一代は、平均30年近いのですが、江戸時代頃の一代は、20年ほどです。

と言うことで、8代遡ってみますと、1751-160=1591年、つまりこの奈良家の初代は、

1591年~1603年の間に、どこからか移住して来て、この地で農業を始めた、と言うこと

になります。 さてこの1591年(天正19年)には、いったい何があったのでしょうかね?

 

そうです、あの九戸政実の乱があったのですよ。乱の敗北により、鹿角の奈良氏の一族達は、

豊臣方や南部方の追跡を逃れ、平家落人のように、鹿角の領地を捨て、青森や秋田各地へと、

落延びて行ったのでした。(「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」より) 

つまり秋田の奈良家は、鹿角奈良氏の末裔である可能性が、極めて高いと言うことなのです!

もしこの秋田の豪農奈良家と、鹿角の奈良氏が本当に繋がるとすれば、これはすごいことですよ。

と申しますのも、この秋田の奈良家、その後は、秋田経済界の重鎮として、現在にまできっちり

繋がっているからなんです。つまり奈良姓の誕生から現在までの奈良姓が、一本の線で繋がった

ことを意味するからなんです。個々人の歴史としては、正直全然ぱっとしない?奈良さんの歴史

であっても、奈良姓全体の歴史として解きほぐして行けば、ちゃんと繋がるのだ、と言うことが

判ったのです。後は、この系統の奈良さんと、ウチの奈良系統の接点を見つけることが出来れば、

良いのですよ。この調査手法は、明治新姓は別として、他の武家由来の氏族名でも、多分応用が

可能であろうと思われます。武家は、家名を大事にしますからねえ。

しかしまずは、この戦国末期に鹿角から逃れ?、江戸時代に秋田市は金足の地で豪農となった?

可能性の高い、秋田奈良家の、現代までの歩みを見て参りましょう。(次回へ)