戦国~江戸期における奈良氏の活躍?

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。このところ、朝晩だけは、ようやく涼しく涼しくなって来ましたね。秋ですものね。

 

さて前回は、無謀にも、天下統一目前の豊臣秀吉に反旗を翻した九戸政実に味方し、自らも玉砕してしまった

鹿角四頭の大湯(奈良)四郎左衛門(昌二)、大里(成田)修理らの戦いを、九戸政実側の視点から見て参り

ました。さて乱の敗北後、鹿角は、大湯村の奈良氏らは、いったいどうなって行ったのでしょうか?

それでは再び「鹿角由来記」(写真)の大湯氏(奈良氏)に戻って、処刑後の経緯を見て参りましょう。

「次男治郎左衛門は、津軽へと落延び、その後治郎左衛門は、津軽氏(津軽為信)に召抱えられ、知行200石を

拝領し、三男彦左衛門も、津軽氏に奉公した。その後の大湯村は、大湯五兵衛の領地となった。」との内容で、

次男・三男は生き延びて、津軽氏の家臣になったのですね。で実は、名前の表記で異説がありまして、類書の

「奥南落穂集」では、大湯四郎左衛門の名が、大湯昌二となっているため、四郎左衛門(昌二)と、記載させて

頂きました。どちらも、九戸政実の乱で処刑されていますので、同一人物と思われます。しかし、津軽に逃れて

生き延びた、治郎左衛門と彦左衛門は、四郎左衛門(昌二)の弟ではなく、昌吉、昌致と言う名で、昌二の子供に

なっているのです。いずれにせよ、この二人は、津軽氏の家臣になれたのですから、どちらも良しと致しましょう。

で、津軽に落延びた二人は、何故仕官が可能だったのか?、と申しますと、この時の津軽氏は、津軽為信でして、

津軽氏の初代なんです。後には、弘前藩初代藩主になります。

元の姓は大浦氏なんですが、実は大浦氏でも養子なんです。実家は久慈氏だと言われていますが、大浦氏も久慈氏も、

南部氏一族内の支流なのです。そこで重要なのは、久慈氏(久慈直治)は、九戸政実と共に乱を起こした頭目として

処刑されている、と言う点なのです。当然、三戸南部氏南部信直とは、反目し合う間柄であった訳なのです。

だから、大湯(奈良)治郎左衛門(昌吉)も、彦左衛門(昌致)も、津軽為信に仕官することが出来たのですねえ。

でも、南部信直に反抗しただけではなく、豊臣秀吉政権に反逆した大罪人の子?を受け入れて、津軽為信の方は、

本当に大丈夫なんでしょうかねえ? と、思いますよね。

ところがこの津軽為信は、豊臣政権に対して、実にうまくやっておりまして、天正17年(1589年)には、為信の

家臣を名代として上洛させ、石田三成を仲介として、秀吉に、津軽の名馬と鷹を献上し、津軽三郡の所領を安堵して

貰っていますし、その翌年天正18年(1590年)3月には、南部信直に先駆けて(南部信直は4月、)津軽為信自身が、

小田原北条征伐に向かう秀吉軍に参陣し、直接謁見を果たしているのでした。この成功の理由は、豊臣家重臣達への、

津軽名産の鷹などの贈り物攻勢が、幸いした!とも言われています。ですからその後、南部信直が前田利家を介して、

「津軽為信に逆心あり!」と秀吉に訴えても、豊臣家重臣の石田三成や浅野長政らが、南部氏の訴えを握りつぶして

くれた!と、伝えられています。(弘前市史より)

と言う訳で、大湯(奈良)治郎左衛門(昌吉)も、彦左衛門(昌致)も、安心して、津軽氏に仕えることが出来た

のでした。しかしそのまま大湯を名乗ることは出来ませんね。当然姓は、本姓である奈良に戻しているのでした。

それでは鹿角の大湯氏の方は、どうなったのでしょうかね? こちらも鹿角由来記では、大湯氏、大湯五兵衛が

引き継いでいますよね? 所領没収ではないのでしょうかね? ここで注目すべきは、先に紹介した「奥南落穂集」

の記載なのです。処刑された大湯(奈良)四郎左衛門(昌二)には、大湯(奈良)五兵衛(昌忠)と言う兄弟がいた、

と言うのです。そして、九戸政実の乱後も、大湯の所領が安堵されていたとすれば、これは信州真田氏兄弟と同様に、

兄弟が家名存続の両面作戦を取っていたのだと言えるでしょう。多分大湯氏も、同様な作戦を立てていたのですよ。

それでも大湯昌二や大里修理に連なる多くの鹿角四頭の小領主達は、処罰を恐れ、この乱の直後、秋田・青森へと、

落ち延びて行ったのでした。多くは落人として、農民になったようです。(「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」より)

また何とか残った鹿角の大湯氏の方も、その後の江戸時代に、子孫が絶えて廃絶してしまったようです。(「奥南落穂集」より)

しかし大湯氏の子孫達や鹿角奈良氏の子孫達は、姓を奈良に戻して、落延びた秋田や津軽の地で、江戸期をしっかりと、

生き残って行ったのですよ。(次回へ) 

 

 

「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」1981 秋田県教育委員会 174~175ページ