元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。いつもこのブログをご訪問頂き、
誠に有難うございます。まだまだ、夏の天気が続いていますねえ、お身体大切に。
今回は、秋田県鹿角市の大湯温泉付近を領有していた、鹿角奈良氏の惣領家である大湯氏が、豊臣秀吉による
天下統一への最後のいくさで敗北した、九戸政実の乱について、詳しく見て参りましょう。
その背景である領主南部氏一族内の内紛状況については、前回簡単にご説明させて頂きました。南部氏一族内が、
九戸政実方と南部(田子)信直方に、それぞれ分かれて対立したのですよ。
さて天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉軍は、小田原北条氏を滅ぼし、その勢いで秀吉は、奥州仕置き(平定)へと
進軍を開始します。下野国(栃木県)宇都宮城に入った秀吉は、ここで奥州の各領主に対し、仕置き状を与えます。
伊達正宗はこの時、小田原遅参などの理由で、150万石が半分以下の72万石にまで、所領が減らされていますよね。
で、南部氏の南部(田子)信直も、小田原参陣していたおかげで所領も安堵され、南部氏宗家として、秀吉から認め
られた訳なのでした。その後秀吉は、奥州仕置軍と共に東北南部を巡行するのですが、途中で帰ってしまいますし、
奥州仕置軍も平泉付近までは進軍するのですが、平定し検地を行った後は、代官らを残して引き上げてしまいます。
世間的にはこれを以って、秀吉による奥州平定=天下統一の完成、と思われているようです。
しかしその後、所領を没収された元領主らによる、秀吉の仕置きに反抗する動きが、一揆と言う形で、東北各地で
勃発することになります。九戸政実の乱は、その最後の大いくさ?であったのでした。
明けて天正19年(1591年)、九戸政実は、南部宗家になった南部(田子)信直への正月参賀を拒絶し、不平を持つ
他の南部一族と共に、5千の兵で挙兵したのでした。元々南部氏一族の中でも有力者であった九戸政実は、いくさも
強く、南部(田子)信直方の城は、次々に落とされて行きます。防ぎ切れないと悟った信直は、6月に、子の利直を
大阪城に派遣し、その窮状を秀吉に訴えます。それに応えた秀吉は、第二次奥州仕置軍を編成し、5千の九戸政実軍を
打ち破るために派遣したのでした。この第二次奥州仕置軍の陣容が、すさまじいものでして、豊臣軍の軍事パレードか?
と見まごうばかりの編成でして、総大将が豊臣秀次で、これに徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、前田利家、石田三成ら
の軍が加わり、更に地元の伊達正宗、最上義光、秋田実季、津軽為信らの軍が配下に入り、現地で待つ、浅野長政、
蒲生氏郷の軍に8月、合流したのでした。豊臣スター軍団ですわね、総勢6万! 5千で勝てる訳がありませんわね。
この時九戸政実に味方したのが、鹿角の大湯(奈良)四郎左衛門(昌二?)だった訳です。まあ玉砕覚悟ですよねえ。
更にこの時、同郷鹿角安保氏(成田氏)の惣領家である大里修理も、大湯四郎左衛門昌二と一緒に、挙兵しています。
大湯氏の居城、大湯鹿倉城(左写真)が、三戸南部氏方の大光寺正親勢の包囲により落城すると、大湯四郎左衛門は、
城を脱出し、九戸政実の籠城する九戸城(右写真)に入ります。九戸方は、豊臣勢に城を完全包囲され、敗北を覚悟
しますが、この時、豊臣秀吉の重臣である浅野長政より、九戸氏の菩提寺の住職を通じて「降伏すれば命は助ける。」
との和睦提案が示されます。これを信じた九戸政実は、9月4日、九戸方の重臣らと共に白装束姿で、秀吉軍に降伏
したのでした。で何と、この白装束姿の九戸方重臣の中に、大湯(奈良)昌二も、大里(成田)修理も、いたのですよ!
ところが降伏したにも拘わらず、助命の約束は反古にされ、城に残っていた者達は、全て二の丸に押し込まれて惨殺され、
火をかけられてしまいます。白装束の首謀者達は捕えられて、奥州仕置軍の本陣のあった、三ノ迫(宮城県栗原市)
へと連行され、処刑されたのでした。詳しくは、岩手県二戸市教育委員会や、岩手県県北広域振興局二戸地域振興
センター等のホームページをご参照下さい。完全に敗者九戸政実側に立った、詳しい解説が得られますよ。
乱の平定後、九戸城(右写真)は、進駐軍である蒲生氏郷によって改修され、福岡城と名を改め、代々の南部氏宗家
が居城する城になって行ったのでした。
これらの歴史を見ると、「鹿角由来記」で書かれている、秋田県鹿角市大湯の大湯氏が、九戸政実の乱で、どうして
三ノ迫の地で切腹?なのか?が、良く理解出来ますよね。何と大湯氏も大里氏も、南部氏配下とは言え、九戸方の重臣?
だったんですねえ。と言う訳で、この九戸政実の乱の平定を以って、豊臣秀吉による天下統一は完成となるのですが、
世間的にはこの乱の事、実はあまり知られてはいませんよね。少し悔しい気がします。
さてこのいくさで、鹿角四頭と呼ばれた在地42領主の多くが、九戸方の落人として、秋田、津軽方面へと離散して行き
ます。(「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」より) この事はまた後代の章で、詳しくご説明させて頂きます。
またそれでは、大湯奈良氏は滅亡してしまったのか?と言うと、さにあらずでして、大湯四郎左衛門昌二の子孫達は、
乱の後も、何故かしっかりと生き延びて行くのですよ。(次回へ)
九戸城跡:岩手県二戸市福岡城之内
大湯鹿倉城跡:秋田県鹿角市十和田大湯下ノ湯
「東北縦貫自動車道発掘調査報告書Ⅰ」 1981 秋田県教育委員会



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