元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。毎度このブログをご訪問頂き、
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前回は、南北朝期に四国を統一し、室町幕府管領家にまで上り詰めた、細川氏の由来について見て参りました。
足利氏一族の中では、細川氏は、決して家格は高い方では無かったのですけどねえ。細川頼之の代に、三代将軍
足利義満の幕府管領になることによって、代々管領職を継ぐ、京兆家(宗家)と呼ばれる名家になりました。
前回の「南海通記」に現れる讃岐の奈良氏は、よくもこのような名家の家臣(重臣?)になれたものですわねえ。
やはり細川氏が、三河国細川(愛知県岡崎市)に移住する時に、一緒について行ったからなのだと思うのですよ。
で左写真は「太平記」の細川頼之なんですが、この太平記の中に、細川京兆家の内衆家臣として奈良氏の名前が、
少し出て来始めるのです。具体的には、永和2年(1376年)3月17日の場面で、頼之の養子、細川頼元と一緒に、
奈良俊阿(五郎左衛門入道)の名前が見えます。更に、永徳元年(1381年)12月15日の場面では、奈良又四郎
(摂津守護代)の名前が見えるのです。更にはその後の細川満元の代でも、奈良元俊が摂津守護代として名前が
見えまして、讃岐の奈良氏が、代々に渡って細川京兆家に仕えていたことが判るのです。(摂津尼崎地域史辞典より)
ですからこの頃から既に、奈良氏一族は、管領職務に忙しい細川京兆家に代わり、地頭として、後に奈良氏の領地
となる讃岐の、鵜足・那珂郡に入植し、地歩を固めていたのであろうと、考えられるのです。
では、奈良氏の本姓である成田氏の方は、細川氏に付いて行かなかったのですかね? それがしっかりとですね、
成田氏の一族だって、細川氏の家臣として名前が見られるのですよ。実は、姓の方は変わっているんですけどね。
鎌倉時代の承久の乱での勲功により、西国は和泉国の信太郷(大阪府和泉市)に、地頭として所領を得た信太氏
(本姓:成田)なんですが、和泉国守護代として、細川家の家臣団の一員として、名前が残っているのでした。
その後更に時代は進み、応仁年間(1467年~)になりますと、前回の南海通記にも見られるように、応仁の乱の
東軍総大将である細川勝元の家臣四天王として、様々な史料に、奈良元安、安富盛長、香西元資、香川元明らの
名前が出て来ることになるのです。
そして1470年、奈良元安(太郎左衛門)は、讃岐国の鵜足・那珂の二郡(香川県の宇多津町、丸亀市、坂出市など)
を領有し、右写真、聖通寺山に城(聖通寺城)を築くことになるのでした。(宇多津町年表、讃岐国古城跡文書より)
この事績により、この頃すでに、各地に広がりつつあった武蔵国出自の奈良氏一族にとっては、この奈良元安こそが、
一番の出世頭だったのではないでしょうかね?(なんたって城持ち!、自慢の親類?、一族の鑑?)
つまり後世、全国に散らばった奈良氏の子孫は、この出世を遂げた、細川京兆家の家臣で四天王と呼ばれた奈良元安
のことを、多分知っていて、色々活用したと思われるのです。そのことは、後代にまた、ご説明させて頂きます。
しかし姓については、少し不思議な感じがしますよね? だって以前の鎌倉期あたりでは、新しい領地を獲得したら、
その土地の地名を姓として名乗っていたのですよね? だったら、讃岐に領地を得た奈良氏は、鵜足氏や那珂氏など?を
名乗るハズなんですが、何故か奈良氏のままですよね? この理由について私は、この頃には既に、新開地が無くなり、
且つ、武士の間に姓を名乗ることが定着したためであろう、と考えています。つまり既にその土地の前の領主が存在し、
自分達も以前からずっと、同じ奈良姓を名乗って来ているので、領民の手前、今更新しい領地名を姓として名乗る訳には
いかない、と言う訳ですね。また将来、領地替えがあるかも知れませんしねえ。
と言う訳で、この頃から在地武士の姓は、代々引き継がれる形に、なって行ったのでした。
さて、讃岐は鵜足・那珂郡に赴任した、讃岐の奈良氏に話しを戻しますと、細川家四天王などと呼ばれた奈良元安は、
あの有名な名城、丸亀城を、最初に築城した人物としても知られています。居城である聖通寺城の支城として築城した
そうですね。(「讃岐の古城跡と豪族たち」等)
さてこのように、讃岐の地に、有力武将として登場した、この奈良元安の一族は、戦国期に向け、どのような運命を
辿って行くのでしょうか?(次回へ)
聖通寺城(宇多津城)跡:香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山



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