鎌倉期における奈良氏の活躍?

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来や歴史について、書かせて頂いております。いつもこのブログをご覧頂き、

誠に有難うございます。

本日で8月も終わりなのですが、眼底メディカルの方も、9月で終了の予定になる見込みです。まあもっとも既に、

レンタルの方は、やっていませんけれどねえ。

 

 さて平安末期から、武士団の勃興により、一族が自分達の土地の所有権を主張するために、土地の名前を姓として、

姓を名乗り始めた訳なのですが、一族郎党が増えるに従って、与えられる土地も、少なくなって参ります。

でそうなりますと、新しく分与・入植が出来る、新たな土地がどうしても必要になって来ます。(貴族や朝廷の

所領・荘園を奪うことは、この時代はまだ出来ません。)そこで、戦いによって、相手の武士団の領地を奪い取る形が、

定着するようになります。実はこれが、源平合戦であり、頼朝による奥州征伐だったのでした。

その結果、全ての武士団の土地が、源氏一族の支配となったので、源頼朝は、鎌倉幕府を樹立することが出来たの

でした。私は、当時のいくさも、土地(領土)争いの手段であったと見ております。

しかしそれでも朝廷や貴族は、まだ武士団の上位に、名目的支配者として君臨していたのですよ。

 

で写真は、「吾妻鏡」の写本で、要は鎌倉幕府による、日記体の幕府記録文書なんですが、文治5年(1189年)7月19日

のページの一部で、奥州藤原氏征伐の、鎌倉出陣式の際の源頼朝に従う兵士一覧の部分です。

あの奥州に逃げた源義経を追討させ、更には奥州の支配者であった、奥州藤原氏を滅亡に追いやった、あの奥州征伐(合戦)

ですわね。で、注目すべきは、左ページ下段部分に、成田氏の初代、成田助隆の子孫と見られる、成田七郎助綱の名前が

書かれていることです。(孫?、あるいは七男か?)

吾妻鏡には、それぞれの武士団の代表者の名前だけが、列挙されたものと思われますので、成田七郎助綱の元には、当然、

成田氏一族である奈良氏の郎党らも、成田氏武士団として、奥州に従軍していたのだと、見られるのです。

そして多分、奮戦したのでしょうね。何故なら、奥州藤原氏滅亡の直後、吾妻鏡によると、同じ年の9月20日の条で、

頼朝は平泉の地で、奥州合戦での勲功に対して、家臣に恩賞の下文を与えているのですが、その多くは、奥州の土地(所領)

だったのでした。要は、元奥州藤原氏の領地での恩賞ですわね。

 

その後奥州の、とある地域の郷土史書から、この時従軍したであろう成田氏一族に与えられた恩賞が、突如判明することに

なるのです。それは、秋田県北部、青森県との県境にある鹿角地域の、17世紀編纂の郷土史書、「鹿角由来記」によって、

その詳細が明らかになったから、なのでした。奥州(東北)の中でも、辺境の地?ですわね。

さあて、鹿角由来記で、何が判ったのでしょうかねえ?(次回へ)