奈良姓の由来・歴史は突然に!Ⅱ

 元眼底メディカルで、奈良姓の由来・歴史を書かせて頂いております、

奈良でございます。まだ、このブログをご覧頂きまして?、誠に有難う

ございます。台風の被害は、当地では、特に無かったようですが、今日

は、めちゃくちゃ暑いそうですね?

 

前回は、熊谷市内をドライブ散策中に、奈良の名前だらけの地区を通り、

その地区の由来などを調べるべく、奈良地区にある奈良神社を訪問して

見た、と言う顛末でしたが、この神社の由緒書きが、更に興味を深める

ものでした。神社の由来だけではなく、この奈良地区の発祥の歴史に

ついても触れているからです。その由緒書きが、右の写真なのですが、

下手くそな写真で、申し訳ございません。で、その内容は?と言うと、

まずは、奈良神社は、延喜式内社(官社)ですよ!と、高らかに宣言を

しておりまして、次に祭神は、奈良別命(ならのわけのみこと)である、

としております。で続いて、奈良別命の由緒について、書かれています。

 

奈良別命は、崇神天皇(第10代天皇)の子、豊城入彦命の四世の子孫で、

仁徳天皇(第16代天皇)の時代に、下毛野国(栃木県あたり)の国造

(大和朝廷の役人)に任命され、武蔵野の当地も開拓して、郷民のために

美田を造った。奈良別命の死後、郷民たちは、彼の徳を偲んで、奈良神社を

建立して奈良別命を祀ったのだと、国造本紀(先代旧事本紀巻10)に書かれて

いるよ、という内容です。つまり、奈良地区は、奈良別命が開拓した村だった、

と言うことなのです。そうなると、この奈良村の誕生は、古墳時代にまで遡る、

と言うことになります。更にこの奈良の地名も、奈良別命の名から来ているのだ

と、考えられる訳なのです。古墳時代!、こりゃ、面白いですわね。

 

ちなみに、奈良別命の墓だと伝承されているのが、横塚山古墳(熊谷市指定)でして、

奈良地区の国道407号沿いにあります。推定年代は、5世紀末頃(熊谷市教育委員会)

だそうですから、時代的にも合いますよね。リアリティありますねえ。

また、奈良別命は、下毛野国(栃木県あたり)の国造(くにのみやつこ)であった訳

ですから、当然、栃木県の宇都宮二荒山神社や野木神社(野木町)の創建にも関わって

いたのだ、という伝承も存在するのでした。

でも由緒書き後半の、奈良神社の神威!について、奈良時代の検古記?(文徳天皇実録か?)

に書かれているとありますが、こちらの話しの方は、いかにも荒唐無稽?、っぽいので

割愛します。 

この伝承、全国各地に良くある、その地域の権威付けのための、誇大伝承?であろうと、

思われる向きも多いと思いますが、実はそうとも言えない状況も、あると考えられる

のですよ。それは、熊谷市の東隣りが行田市である、というところから、なんです。

埼玉在住者じゃあないと、判らないかも知れませんが、埼玉の地名は、さきたまの地

から来ています。で、さきたまの地とは、現在の行田市あたりを指します。そして

さきたまの地には、さきたま古墳群があるんです。1968年、あの有名な鉄剣銘文が出土

して、雄略天皇(第21代天皇)の名前が現れた稲荷山古墳のある、さきたま古墳群です。

古代の官道であった東山道(407号)で繋がる奈良村は、すぐ近所であったのですよ。

つまり古墳時代、古代大和朝廷による、下毛野国など蝦夷地開拓のための前線基地が、

行田・熊谷あたりに存在していた、と言うことが推察出来るのですよ。そう考えると、

奈良別命の伝承の方も、ぐっとリアリティが増して来ると、思われるのですがね。

更には、奈良神社が、延喜式内社であったと言う事実も、有力な補完材料になりそうです。

何故なら、927年にまとめられた延喜式神名帳にその名がある、と言うことは、単なる

村社ではなく、平安時代に至るまでも、何故か?朝廷から官社であると認められていた、

と言う意味ですから、奈良別命の伝承は、更にリアリティを増して来る訳なのであります。

(次回へ)

 

※さきたま古墳群=さきたま古墳公園:埼玉県行田市佐間