大学医学部、医局について、ⅩⅡ

 眼底カメラレンタルの眼底メディカルです。毎度、このブログをご訪問頂き、誠に

有難うございます。何故か、医師養成学校(大学医学部)の、歴史的変遷について、

延々と書かせて頂いております。元々は、私が存じ上げていた、某医科大の学長の、

例の事件のお話しから始まったのですけれどねえ、、、。もう忘れました?

 

さて、明治時代から終戦後までの医師養成校の歴史・変遷について、振り返って来た

訳ですが、まあ混乱の歴史であったと言えますね。その中でも、特に問題であり続けたのは、同じ医師という資格であっても、教育格差(身分格差?)がずっと存在し

続けた、という点であろうと思われます。明治時代には、従来開業医(漢方医)と

医学校出が並存しておりましたし、大正・昭和にかけては、医科大学卒と医学専門 

学校を出て医師試験に合格した医師が、やはり並存していました。つまり優劣2種類

の医師が、絶えず存在していたのですね。更に戦時中には、軍医という教育不足の医師が、

更に大量増産されました。そして、これら両者の間に、交流はありませんでした。

このことが、日本全体の医療の進歩を阻害し、終戦後GHQをして、日本の医療水準は

中世並みだと、言わしめたのだと、私には思われます。

 

こうして戦後、GHQによる医療改革が始まるのですが、1946年(昭和21年)から始まった、

インターン実習制度の義務化によって、日本全体の医療水準が向上し、均一化して行ったのだと、

私は考えるのです。医科大学を卒業しても、1年間の臨床実習を受けなければ、医師国家試験を

受験出来ないのですよね。この1年間のインターン実習の成果は、別の意味で、非常に大きいもの

でした。と申しますのも、インターン実習が義務化されたと言っても、受け入れる側の大学病院や

市中病院には、何の準備・計画もありませんでした。私はこのことが逆に、新しい実習・研修制度

をゼロから作り上げた、という意味では、良かったのではないか?と、思えるのです。

インターン生を受け入れるということは、もう卒業しているのですから、講義とは異なる研修環境を、

整えなければなりません。このため大学では、医局会(カンファレンス)が整備されて行きました。

現在までも続く、様々な医局カンファが、出来上がりました。代表的なものとしては、症例検討会、

論文抄読会、研究発表会などですかね? 現在も各医局で、盛んに行われています。

で、この当時で最も重要な点は、これらの医局会が、地域の医師(開業医等)にも広く公開されていた、

と言う点なのです。現在でも、この伝統は、各医局に、かなり引き継がれていますよね。

つまり新卒者だけではなく、医学教育が不十分であった軍医などが外地から復員して来ても、再研修の

場が用意されていた、ということなのです。大学医局が、社会に開かれていた、ということなのです。

従来は無かった、医局の新しい社会的役割でした。これは多分、戦後の民主化の影響なのでしょうね。

地域の医師会と大学医局との結びつきも、強くなって行きました。各学会なども、医会との共催になり

ます。インターン生のために市中病院の医局でも、公開カンファレンスが開催されるようになります。

最近では、一般患者向けの、市民講座なども、医局や学会主催で、開催されていますよね。

このようにして、日本全体の医療水準の底上げ向上・均質化が、インターン制度の導入によって、

ようやく実現して行ったのだと、私は考えています。

 

但しインターン制度には、負の側面も、もちろんありました。人手不足の病院にとって、インターンは、

無給の労働力でした。更にインターンは、まだ医師ではない(責任も問えない)にも関わらず、医師と

同様の仕事(診療)をさせられる場合が多かったのでした。当時のインターン制度の和訳が、「診療

実地修練」でしたからね、まあ現場としては、新入社員教育と同様の研修と解釈していたのでしょうね。

ところが実際のインターン生は、まだ社員じゃあなかったのです。無給でしたし、まだ医師でもなかった

のでした。(無資格診療!?)

それで、インターン生の不満が爆発する形で、1960年代末の大学紛争が勃発し、紛争は全国に波及し、

インターン制度は廃止されることになり、現在の研修医の制度に代わって行きます。(次回へ)