大学医学部、医局について、ⅩⅠ

 眼底カメラレンタルの眼底メディカルです。毎度、このブログをご覧頂き、誠に

有難うございます。気温が下がったのは良いのですが、うっとうしい雨が続いて

おります。皆様、3連休でしょうかね?

 

前回は、戦時中末期の、めちゃくちゃな医師養成の歴史について振り返ってみましたが、敗戦後の日本の医療の荒廃は、ひどいものでした。劣悪な生活環境の中での

チフス等の伝染病の発生など、日本の医療不足は歴然でしたが、続々と復員して来る軍医や、外地からの引き揚げ医師の増加により、終戦時、わずか1万2000人!ほど

であった日本全体の医師数は、翌年には何と6万5000人にもなり、医師過剰!?

と言われるような、訳の判らない状況になって行ったのでした。

当時は医療施設・病院不足だったんですよね。医療機器もありませんから、医師の

大多数は、往診かばんひとつの、江戸時代並みの往診専門開業医ばかりだったのですよ。

更には、速成養成による教育不十分な医師も、残念ながら多数存在したのでした。

 

ですから進駐して来たGHQは当然、医療改革だけでなく、医師養成制度についても、

改革を断行して行きます。担当者は、クロフォード・サムスという軍医(准将)でした。

まず敗戦翌年の1946年に、従来大学を卒業すれば、無条件で医師免許が与えられていた

制度を改め、1年間に渡るインターン実習の後に、新らたに定められた医師国家試験に

合格することにより、医師免許が与えられる形に、変わりました。(大卒価値の下落?)

何せ、当時の日本の医療レベルは、米国に比べて、中世並み?だそうでしたからねえ。

移行期間は特に大変だったようでして、特に医学専門学校の卒業者は、従来だと、医師試験

に合格すると医師免許が与えられた訳ですが、この医師試験、「医師国家試験予備試験」と

名前が変わりまして、合格しても医師国家試験を受験することが出来るだけなんですよね。

もちろん1年間のインターン実習も必修な訳ですから、大学との学校格差はむしろ拡大した

ような状況なのでした。

 

更に翌年、それまで4年間であった医学部の修学年限を、6年に延長しました。でも本当は

GHQとしては、8年間にしたかったみたいですけどね。と言いますのも、米国の教育制度では、

一般の大学を卒業(4年間)してから、医学部に進むそうですからね。でも日本側の抵抗により、

6年に落ち着いたのだそうです。よっぽど日本の医学教育レベルが低いと、見られたんですかね?

そして、医師養成学校にも、改革の手が加えられました。同じ医師を養成するのに、大学医学部

と医学専門学校があって、更に医学専門部もあるのはおかしいと、GHQには思われたようです。

当時の医学専門学校の多くは、戦時中末期に、軍医を速成大増産するために新設された学校でした

からねえ。教育設備も教育レベルも貧弱だったのでした。だって、付属病院すら無かったのです

からね、臨床実習だって出来ない訳です。それで医学専門学校は、存続の可否をGHQによって、

判定されることになってしまいます。結果、A判定を受けた28校は、旧制医科大学昇格を経て、

新制大学に移行して行きますが、B判定を受けた7校は、転科・廃校となってしまいました。

 

また、この年1947年(昭和22年)には、新しい学制も制定されたのですが、移行措置等によって、

旧制と新制の学生が混在する状況になり、一般大学は1950年(昭和25年)頃には新制に一本化された

ようですが、教育期間の長くなった医学部では、旧制と新制学生が入り混じる状況が、何と1955年

(昭和30年)まで続いたそうですから驚きです。このあたりまで、医師養成の混乱期が続いていた

訳なのですね。(次回へ)