眼底カメラレンタルの眼底メディカルです。いつもこのブログをご覧頂き、
誠に有難うございます。台風、大地震と、各地は大変なことになっていますが、
皆さんはご無事でありましょうか?
ここのところ、現在の大学医学部や医局の源流である、近代日本の医師養成の
しくみの変遷・歴史について、書かせて頂いております。
前回は、誰でも受験出来、それまで多くの医師を輩出して来た医術開業試験が、1916年(大正5年)に廃止され、その後は、認可を受けた大学か、医学専門学校を卒業しなければ医師になれなくなったのだ、と言う状況をご説明しましたが、
更には1918年(大正7年)に大学令が制定されまして、それまでの医学専門学校の中から、基準を満たすと、ランクが上の大学へと、昇格する道が開けまして、
その後、医科大学に昇格する医学専門学校が、増えて行きました。(慶応大など)
と言うことは、無試験で医師免許が与えられる学校が増えた、ということですね。
このようにして、ようやく医師や医療の質も均質化して行ったのだと思われますね。
昭和初期時点での国内の医師養成学校の状況としましては、帝国大学医学部が7校
(東京、京都、九州、東北、大阪、名古屋、北海道)、官公立の医科大学が7校
(千葉、岡山、金沢、長崎、新潟、熊本、京都府立)、私立の医科大学が3校
(慶応、東京慈恵会、日本)、そして卒後医師試験の受験が必要な、医学専門学校が
9校(東京女子、東京、帝国女子、日本大学、昭和、岩手、大阪女子、大阪、九州)で、
合計26校という状況でした。だいぶ現在の医大の状況に、近づいて来ましたかね?
ところが、昭和十年代に入り、戦争の時代に突入しますと、事態が一変してしまいます。
戦地へと送るため、大量の軍医の養成が、急務になったのです。戦地が、中国、満州と、
どんどん拡大していましたからね。26校の医師養成学校だけでは、到底足りなくなったの
でした。そこで軍部・政府はどうしたのか?と申しますと、今度は医師の大量速成養成に
踏み切ったのでした。せっかく医療の質が、均等化して来たと言うのに、ですよねえ、、。
でもいきなり、医師養成学校を大量に増やすことなんて、物理的にも財政的にも、不可能
ですよね。そこで軍部・政府は、何を考えたのか?、と申しますと、1939年(昭和14年)に
既存の官立医科大学13校の中の医学部内に「臨時医学専門部」という別科を設置したのでした。
何と、通常の医師養成の医学部と、軍医養成目的の臨時医学専門部が、並立した訳なのです。
ここでまた再び、同じ学校の学生⇒医師でも、様々な身分格差が発生することになります。
設置当初は、3カ年の期限付き措置だったため、臨時が付いていましたが、恒常化したため、
後に臨時の文字は取れて行きました。でも良く判りませんかね? 要は、既存の医学部設備、
教員を利用して、別科という形で、大量の軍医養成を考えたのでした。各大学1校当たりの、
この別科の定員は、何と150人でした。このようなやり方で、4年後には、一挙に2000人もの
医師の大量増産が、可能になるハズだったのでした。もうハチャメチャですよね!
ちなみに、この「臨時医学専門部」に入学した有名人としては、漫画家として大成した手塚治虫
さんがいらしたようですが、卒業時は戦後となり、医学部卒になっていますね。
しかし専門部の生徒は、学徒出陣で続々と、学業途中にも関わらず、軍医として召集されて行った
ようなんですけれどね。つまりまたまた、医師の質に、格差が出て来ることになるのです。
と言う訳で、戦争拡大の中で、軍医だけではなく、日本全体の医師不足も、益々深刻になりまして、
次に政府が取った政策というのが、1943年(昭和18年)の医学専門学校の大増設、特に女子の
医学専門学校の新増設策だったのでした。どう言うことか?、と申しますと、多くの男性医師も
軍医として召集されてしまい、国内全体の医師不足が深刻になったからなのでした。そこで軍部は、
兵役義務の無い女子に、医療の担い手として目を付けた、という訳なのです。こうして全国各地に、
26校もの医学専門学校が、一挙に新設されることになります。この内女子医学専門学校は7校でした。
でも、これらの新設医専校は、戦後になって、現在の医科大学に昇格して行きましたけれどね。
しかしここまでしても、医師不足は、すぐには解消されませんでした。(そりゃ当然ですわね。)
そこで飛び出した最後の手段?が、、、、(次回へ)

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