大学医学部、医局について、Ⅷ

 眼底カメラレンタルの眼底メディカルです。いつもこのブログをご覧頂き、誠に

有難うございます。本日は、昨日の台風一過で、暑さがぶり返しておりますね。

 

前回は、明治・大正期の医師の大多数は、従来開業医(漢方医)か、医術開業試験

に合格した医師ばかりで、実は、医科大学を卒業した医師は非常に少なかったのだ、と言う、少し意外なお話しをさせて頂きました。そこでもう少し、現在とはまるで

違う、当時の医師養成のしくみの歴史について、振り返ってみたいと思います。

と申しますのも、この頃の医師養成の影響が、現代にも生き残っていたりするから

なのです。

 

当時は、大卒の医師って超エリートだったのですね。院卒じゃあないですよ、単なる

大卒です。(まあ旧制なんですけど。)ちなみに、明治・大正期の医科大学は、東大を

始めとして、全国で19大学しかありませんでした。(この内2校は、朝鮮と台湾の大学。)

ですから全国各地の西洋医師への需要を満たすためには、どうしても、誰でも受験が出来た、

医術開業試験での合格者が必要だった訳なのですね。(何と独学でも、受験⇒合格が出来た!)

でも、医術開業試験は、学歴に関係無く、合格者には医師免許が与えられたため、大学卒の

医師の側からは、医学の進歩に対応出来ていない?などと、常に批判を受けていました。

免許を受けた医師達の中にも、身分優劣があった訳です。医師会なども、ふたつに別れます。

また、医術開業試験は、非常に難しい試験(前後期試験)であったため、合格を目指すための

専門の塾(予備校)が、各地に設立されるようになるのですが、これらが、医科大学とは別の

医師養成塾として、後の医学専門学校になって行く訳です。私は、江戸時代からの医塾が、転化

したのではないか?と、思っています。ですから戦後になってようやく、医科大学に昇格した

ようですけれどね。やはり格差差別が、あったのですよ。

ちなみに、明治期に最初に設立された済生学舎という塾は、野口英世の卒業した学校なのですが、

後に、現在の日本医科大学の母体になっていますね。でも塾上がり?ということで、差別されて、

一旦は、政府の認可が下りずに、廃校処分になってしまった事もあるんですよ。

 

当時基本的には、卒業すれば無条件で医師免許が与えられる大学と、医術開業試験を受けなければ

ならない予備校(医学専門学校)にと、医師養成学校にも、格差優劣が付けられていたのでした。

まあ医師の方も、大学卒、医術開業試験合格者、従来開業医(漢方医)という形で、表には出ない、

3つの身分が存在していました。と言うことで、当時はまだ、医療の質が均質ではなかったのですね。

そこで医療の質の向上、均質化を目指すため、その後様々な施策が実施されることになります。

まずは、1903年(明治36年)の専門学校令と医師免許規則改正によって、公立医学校や、一部の

私立医学校でも、無試験で医師免許が与えられる医学専門学校への昇格などがありました。

この時、野口英世の卒業した学校は、基準が満たせず、認可が受けられなくなり、一旦廃校になって

しまいます。 医学専門学校の方に対しても、更に優劣が付けられ、一様ではありませんでした。

まあ、より上の学校へと、昇って行く道は拓けていた、とも言えるかも知れませんけれど、、、。

 

更に大正期に入り、1916年(大正5年)には、誰でも受験出来た、医術開業試験は廃止されまし

て、医師になるには、無試験付与学校卒業の他は、認定を受けた、私立の医学専門学校を卒業して、

新たに出来た医師試験に合格することが必要になったのでした。医師になるための規制が、より強化

されたのですね。まあ医療の質の向上、均質化には良かったのかも知れませんがね、、。(次回へ)