大学医学部、医局について、Ⅶ

 眼底カメラレンタルの眼底メディカルです。毎度、このブログをご訪問頂き、

誠に有難うございます。本日より9月ですが、まだ全然夏ですねえ。

 

日本の医局とは、古来からの家元制度 、徒弟制度から派生して成立して来たの

ではないか?、というような推論を、前回はご説明させて頂きましたが、最近は、医局に縛られるのが嫌で、大学の医局に所属しない研修医も、増えているそうですね。医師免許があれば、学位など不要、臨床経験は、都会の大病院での臨床で積めば良いのだとすると、うるさい医局になど所属せずとも、良いのでは?と、思えて

しまいます。大変な思いをしての開業などしなくとも、比較的気楽な、勤務医の

ままで良い、ということでしょうかね? そうなんです、勤務医が増大している

のですよ。ホントは開業して普通に成功すれば、収益も大きいのですけどねえ。

 

昔はというか、例えば戦前までの日本では、医師は、開業医が圧倒的大多数だったのです。

当時は、公立病院数が少なかったこともあるのですが、医師の70%以上は、開業医でした。

江戸時代から続く慣習として、医師とは、開業して就く仕事、であったのでした。診療自体は、

往診が主体でしたが、医師それぞれが、「医局」(診療室?)を持っていたと思います。で、

そこでは、医師になりたい弟子の教育なども、行われていたハズだと思っております。

また、医師になる方法も、戦前までは、現在と違っていたのでした。極論すれば、大学を出て

いなくとも、医師にはなれたのですよ! え、ホント?!と、びっくりなお話しですよね? 

もっとも、これには時代ごとに、様々な注釈が必要ではあるんですけどね、、、。

少し、日本の大学医学部の成立、医師養成課程の歴史について、振り返ってみたいと思います。

 

明治期に入り、ドイツ医学が導入され、それまでの漢方医学が否定されることになった訳ですが、

実はそれまでの漢方医までが、否定された訳ではありませんでした。どういうことか?、と申し

ますと、維新直後の明治2年には、ドイツ医学の導入という医学制度改革が決定されたのですが、

当時の日本にはまだ、最初の医科大学となる東京大学も無く、ドイツ医学教師もいない状況だった

のです。大量の西洋医師を養成するには、長い時間がかかりますよね。ですから日本全体を、すぐ

には西洋医学に変更することは出来ず、暫くは、漢方医師を温存・活用するしか無かったのでした。

明治7年には医制が制定され、従来は自由であった医師の開業が許可制になり、従来は無かった

医術開業試験も、実施されるようになったのですが、それまでの漢方医は「従来開業医」として、

医業の継続が認められたのでした。またこの医術開業試験の受験資格も、学歴は不問!で、西洋医学

についての試験にさえ合格すれば、誰でも医師として開業することが出来たのでした。

これらの従来開業医(漢方医)と、医術開業試験の合格者が、明治・大正期の医師の大多数を占めた

のでした。逆に明治期から昭和初期の間は、医科大学卒の医師数は、実は非常に少なかったのでした。

(そもそも医科大学が少なかった!)ですから当時は逆に、医科大学の卒業生であれば、無試験で

医師免許が与えられていたそうなのです。学士様は、非常に希少だったのですね。

逆に言えば、同じ医師とは言え、医師の中にも、優劣・格差が、厳然と存在していたのでした。

 

ちなみに、医術開業試験は、大正5年まで続いたそうですから、明治・大正期の医師の大多数は、

大学を出ていない、と言えると思いますが、有名人では、野口英世もそのひとり、だそうですね。

ただこの医術開業試験、べらぼうに難しい試験であったため、合格するための多くの予備校が設立

されていたそうです。これが医科大学とは別の、医学専門学校になって行きますが、ここにも、

医局の源流があるような気がします。(次回へ)